バカな夢

このブログ(更新)もあと2週間たらずとないりました。書きもらしがないか、いろいろ考えながら「けじめ」をつけようと思っています。
昨晩、あれこれ考えていたせいかバカな「夢」を見ました。しかも舞台は図書館。
「夢」といえば…

  • 睡眠中あたかも現実の経験であるかのように感じる幻覚のこと
  • 将来実現させたいと思っていること。あってほしいと願っていること・願望。

と二つに大別されます。

今回の「夢」は、前者なのですが、後者のように「あってほしい」と思う心が深層心理というか、絶えず心の奥に沈澱していて、それが前者として反映されてきた、というような気もします。
で、その夢ですが…
舞台は私の昔努めていた分館。ただし、様子が違っていて、カーペット敷きの乳幼児向け絵本コーナーとカウンターはそのまま。他の書架群は消え去っていて、かわりにファミリーレストランのように椅子とテーブルが並べてあります。
私はカウンターにいるのですが、利用者さんに訊ねれると、あら不思議。件の本がイメージしただけで自分の手の中にある!
と、いうもの。

実に荒唐無稽な世界でした。
ただし(細かい部分はともかく)、電子書籍の普及などでそれに近いコンセプトの図書館ができる…
もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら?
それでもいいわ。近頃すこし、
地球の 図書館に
あきたところよ! HA!

図書館ワーキングプア〜quasi-marketと指定管理者をめぐって〜

休止まで2週間を切りました。
このブログをはじめて以来、ずっと考えてきたことは「図書館ワーキングプア」についてです。
やるせなさ、切なさ、無力感と罪悪感…様々な思いがよぎります。
いままで非常勤職員〜官製ワーキングプア〜について考えてきましたが、今回は「指定管理者・民間委託」における問題を考えてみたいと思います。

「市場」としての図書館

日本は図書館法により、公立図書館は地方公共団体のみが設立できる(ただし類似施設は何人も設置することを拒まない)ものであるから、住民はみずからの在住・在勤・通学する地方自治体の図書館を利用するのが一般です(むろん、広域利用など近隣自治体の図書館を利用することもある)。ごくまれなケース(当該市町村内に県立図書館等が設置されているような場合)を除き、一つの自治体に運営主体を異にする公立図書館が並存するようなことはありません。ですから、市民の多くは自らの意思で公立図書館を自由に選ぶことはほとんどないといえます。
一方、サービスの対価としては、図書館法第17条で「無料の原則」があることから、公平性・平等性を保たれている反面、「価格競争」が生じることもありません。。
このように、競争相手が“不在に等しい”状態であること、市場競争のもっとも大きなファクターである価格競争がないことを考えてみると、日本の公立図書館は、市場メカニズムが働きにくい環境にあるといえるでしょう。
そのような、競争原理が働かない図書館界に“競争原理”を持ち込もうとして(一応タテマエとしては、ホンネは別か?)、指定管理者制度等がもちこまれたワケですから事情がフクザツになります。

quasi-marketと図書館

ここでは、ロンドン大学ジュリアン・ルグラン教授による、「quasi-market(日本語では「準市場」と訳される場合が多い)」のモデルになぞらえて考えて見ましょう。この考え方としては、従来の公共サービスを、

  • Queen(女王)=サービスの提供者
  • Pawn(チェスの歩)=サービスの利用者

という関係に、

  • knight(騎士)=利他的役割者
  • knave(ならず者)=利己的役割者

を追加して、相互の関連・関係から市場原理で競争させようとしたものです(かなり雑駁な説明だ)。

knight(騎士)か、knave(ならず者)か、それが問題だけど…

さて、公共図書館は前述のとおり、「競争」がそもそも難しいのです。そもそも競争の結果を評価として見極めることが難しいのですね。
指定管理者は、図書館司書を、地方公務員のような特殊な任命関係から脱却し、雇用市場から自由に調達することができるようになったものの、主力「商品」たる図書は再販制度により価格が事実上決まっている場合が多いため、調達の「競争」に制限をかけられているといえます。
まず、Pawn=図書館サービスを受ける側(利用者・市民)には図書及び図書館についての「専門的知識」がなく(当たり前だ)、サービスへの評価は数量的・外形的なもの(開館時間、開館日数、施設の清潔・職員の接遇など)にとらわれやすい傾向にあります。
加えて、図書館マニア・研究者・関係者などのごく一部を除いて、他の自治体が設営する公立図書館に足を向ける機会は少ないから、比較検討なり目安のようなものがないから、knight(騎士)なのかknave(ならず者)なのか、まったくわからない。
他方、Queen(女王)=サービスの提供者(地方公共団体)にとっても、事情は同じようなもので、直営職場では“日本図書館協会主催の「貸出し競争」に汗を流すだけ”の存在に過ぎないから、やはり数量的・外形的な評価にとどまる傾向にあります。
このような理由から、本来knight(騎士)を佩用させるべきところをknave(ならず者)にしてしまったり、あるいはその逆(コチラが多数派か?)パターンもあり。
さらにはS県T市のように、Queen(女王)たるものがknave(ならず者)になってしまっていて、類は類をよぶじゃないけど、knave(ならず者)にknight(騎士)の称号を与えてしまう場合もあるから、まったくワケがわからない状態。

指定管理者ワーキングプアはかくして生まれる

で、knave(ならず者)ともknight(騎士)ともつかない指定管理者。指定管理者にとっては、Queen(女王)から「仕事」をもらえるか、ということが「競争」であり、それがゆえに利己的なknave(ならず者)の立場をとらざるをえません。
図書館司書を、地方公務員のような特殊な任命関係から脱却し、雇用市場から自由に調達することができるようになったものの、主力「商品」たる図書は再販制度により価格が事実上決まっている場合が多いため、調達の「競争」に制限をかけられているといえます。
結果として、たいていの場合では「価格競争」でQueen(女王)から称号を得るしかないし、Queen(女王)も財政難でそれをお望みであらせられるご様子。
ただし、「価格競争」に突入したとしても、人件費比率が高いうえほかに「競争=価格を下げる企業努力」の余地がないとなれば、人件費を削るしかない、ということで「ワーキングプア」は生まれてしまいます。
もっとも、以前のエントリ

・平成図書館行政史? 〜指定管理者図書館はかくして生まれたり〜
 http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20120916/1347773992

に書いたとおり、指定管理者は「競争」という美名のもと小泉政権新自由主義がうみだしたアウトソーシングですね。

以前からワケわからないコト*1で、誹謗中傷するコメントをされる非常勤の方がいます。
私のブログを「攻撃」してなにが面白いのかわかりませんが*2、ここは私の統べるブログですので、内容によっては即刻「承認待ち」にいたしますので、前もってご了承ください。

*1:コメント返しで訊いたら、ガン無視された

*2:まぁ、ニーチェのいう「ルサンチマン」でしょう

図書館員のかいた汗は〜図書館員の競争原理と格差〜

図書館の格差

今日わが国は“選択と集中”がもてはやされ、格差〜勝ち組と負け組、富める者と貧しき者〜が二極分化する“格差社会”にあると指摘されています。
『中小都市における公共図書館の運営(=中小レポート)』,『市民の図書館』が目指した公共図書館運動には、「図書館の自由に関する宣言

  • すべての国民は,いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する
  • すべての国民は,図書館利用に公平な権利をもっており,人種,信条,性別,年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない

といった記述にあるように、公平・平等なサービスの実現を目指したものでした。
前回のエントリで、『市民の図書館』に“後継者だったはずの”『21世紀の町村図書館振興をめざす政策提言:Lプラン21「図書館による町村ルネサンス」(=以下「Lプラン」という』が“不発”だった理由について、時代背景と自己の体験をもとに考えてみました。
が、Lプラン21は、その後意表を突いたかたちで“成果”を残すことになります。それは、図書館相互の「競争」を煽るとともに、図書館同士の「格差」〜特に中央(大都市)と地方との差〜をつくりだす結果になってしまうのです。

日本図書館協会主催K−1(貸出し)グランプリ開幕!

日本図書館協会政策特別委員会は平成16(2004)年3月、

・公立図書館の任務と目標
 http://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/236/Default.aspx

を改訂します。その「目玉」といえば「数値目標」です。

公立図書館の数値目標について,旧版までは一委員の試案というかたちで掲載してきた。この間,日本図書館協会では「図書館による町村ルネサンス Lプラン21」(日本図書館協会町村図書館活動推進委員会著2001)を発表し,そこで公立図書館の設置と運営に関する数値基準を提案した。これは「日本の図書館1999」をもとに,全国の市町村(政令指定都市及び特別区を除く)の公立図書館のうち,人口一人当たりの「資料貸出」点数の多い上位10%の図書館の平均値を算出し,それを人口段階ごとの基準値として整理した上で提案されたものである。
そこで今回の改訂にあたっては,「Lプラン21」の数値基準を改訂するかたちで,「日本の図書館2003」によって新たに平均値を算出し,これをもとにした「数値基準」として提案することとする。

ちなみに、ここに出てくる「日本の図書館1999(2003)」とは、日本図書館協会が刊行している統計書『日本の図書館−統計と名簿』のことですね。

平等なき競争

この『日本の図書館−統計と名簿』。お手にとってご覧になった方はおわかりでしょうけど、人口別に、蔵書や貸出統計が掲載されています。(類似?)都市を比較し、ベンチマークするには実に便利にできています。
この手法を「任務と目標」は“応用”し、類似規模自治体を“よい子・悪い子”ならぬ“よい図書館・悪い図書館・フツーの図書館”へと「区別」がつけやすい、とも思えますが実は平等ではないのがこの競争です。
たまたま、人口が同じというだけで“類似都市”とカテゴライズするのはかなり乱暴な手法です。
たとえば、『市民の図書館』の聖地である東京都日野市の人口は約18万人ですね(2012年7月1日現在179,464人)。同じく図書館活動旺盛なお隣東京都立川市も約18万人
(同179,503人)ですからかなり「類似都市」と呼べるでしょう。
さて、北のほうに目を向けると、北海道の釧路市(2012年6月30日現在181,206人)や苫小牧市(同173,406人)あたりも人口“だけ”みると「類似」都市と呼べそうですが、その面積たるや、

  • 日野市   27.53キロ平方m
  • 立川市   24.38キロ平方m
  • 釧路市  1,362.75キロ平方m
  • 苫小牧市  561.4キロ平方m

日野と立川は僅差、ほぼ同じといってもいいでしょうけど、苫小牧・釧路はさすが北海道。文字どおりケタ違いといってもいいでしょう。
ここで、経験ある図書館員なら誰しも知っていることですが、自宅と図書館との距離に反比例して図書館利用は減少していきます。また、人口密度が高ければ分館などの拠点一つあたりの効果も高くなります。つまり、同じ人口の自治体でも、人口密度の高い都市は低い都市にくらべて格段に「優位」なのです。
違うのは面積だけではありませんね。地方自治体の財政も大きな要因になります。東日本大震災液状化で大被害をもたらしたとはいえ、千葉県あたりの、ねずみさん・がちょうさん・熊さんたちが一所懸命大きな場所に住み(固定資産税)、かつ働いてくれて(法人市民税)、税収豊な自治体と北海道の夕張市あたりとは較べるもおろかです。

日本図書館協会の“モラルハラスメント

まぁ、自動車レースにしろ競争にはレギュレーションとかがつきものですが、この競争にはそのような上等なものは一切ナシ。まるで“オジサン草野球に現役大リーガー”“自動車教習所にレッドブルルノー”とにかくめちゃくちゃな世界ですね。
そのような「批判」を「予定」していたのか知りませんが、「任務と目標」は、こうした自治体間の事情とかまったく考慮せず、次のように述べてます。

少なくとも図書館設置自治体のうち,10%の自治体にあっては住民がこの水準の図書館サービスを日常的に受けているのであり,住民にとって公立図書館サービスが原則的には選択不可能なサービスであることからも,ここで提案する数値はそれぞれの自治体において早急に達成されるべきものであると考えている。

早いハナシが、
「ヨソ(の自治体)でちゃんとやってんだから、見習いなさいよ!」
ということです。
各都市の図書館員の努力ではどうにもならない、仕方のない、手のうちようがない、そのような「現実」に対し、無理な「理想」を押し付ける、というのはもはや“モラル・ハラスメント”といってもいいでしょう。

日本図書館協会の「中央集権」がつくる「格差」

まぁ、単に貸出し競争を楽しむだけならそれでよいのですが…
いま、地方自治体では「予算要求の季節」を迎えています。貸出密度(誰が考えたかわからんが、貸出資料数を人口で割った、もっともらしい名前のどうでもいい数値)上位の図書館は「功績」があるとして、予算(資料費)も人員も出してもらえます。ところが、平均より劣っている自治体は「努力不足」とみなされ、資料費は削減されるばかり。図書館にとって資料費は生命線ですから、富める館は貸出しをますます伸ばし、プア館はどんどん利用者が減る…というワケで、「格差」は広がるばかり…
と、まぁこのように皮肉なことに
「すべての人に図書館サービスを!」
という公平・平等なサービスの実現という高邁な理想を目指していたはずの『中小レポート』から『市民の図書館』、そして『Lプラン21』の総大成としての「任務と目標」が、
「一部の自治体の人だけ優れた図書館サービス」
という、不公平・不平等な“目標と結果”になってしまっているのです。
あぁ、そう言及し忘れたけど「貸出し」だけを評価の主眼にすえた単純さも指摘しておくべきですね*1
やはり、前回も書きましたが、今日図書館界を代表する日本図書館協会

日本図書館協会役員一覧
 http://www.jla.or.jp/jla/tabid/225/Default.aspx

首都圏近郊ばかりで固めた役員人事の影響もあるといえますが…

図書館員の流した汗は

ある意味、日本図書館協会はスゴいことをやらかしましたね。
なぜなら、図書館法第三条にある

図書館は、図書館奉仕のため、土地の事情及び一般公衆の希望に沿い、更に学校教育を援助し、及び家庭教育の向上に資することとなるように留意し、おおむね次に掲げる事項の実施に努めなければならない

“土地の事情及び一般公衆の希望に沿い”の文言を酌むことなく、列挙された“図書館奉仕”を「貸出し」の一点に集中してしまったからです。もはや「遵法」も「倫理」もない
ドイツの社会学者マックス=ウェーバーは、その著書『プロティスタンティズムと資本主義の精神』

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

で、こう書きました。

営利活動は宗教的・倫理的な 意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、 スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。

文中“営利”を“貸出し”に置き換えるとピッタリ当てはまってしまいます。
私は、自分が図書館員になったとき、
「毎日、汗をかいて働いてます!」
と、自分を持ち上げる図書館員が多いのに違和感のようなものを感じてました。
でも、今となってはそのワケがわかるような気がします。
その「汗」は「労働」ではなく「スポーツでかいた」汗であると…

おまけ

いま話題の武雄問題。これも図書館界発展の一形態であるのかもしれません。先述のマックス=ウェーバー『プロティスタンティズムと資本主義の精神』から引用しておきます。

こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」 》letzte Menshen《 にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことにない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。

*1:本当は、このあたりをもっと指摘するべきだが、長くなるので省略!

『市民の図書館』果てしなき独走の理由。

前々回のエントリで、『市民の図書館』の成立について考えてみました。
わかりやすさが身上の“貸出し重視”は、当時の図書館員の支持することになったことは周知のとおりのことでした。
私は、過去のエントリで、巷でいわれる『市民の図書館』大成功の裡には、同書の“成果”のほか、

  • モータリーゼーション
  • OPACによる“一人当たり貸出し冊数の増加”

が与えた影響なり追い風があったことを指摘したと思います。
今回は、なぜ成立から40年以上の歳月をへている『市民の図書館』について、今日なお、公立図書館員のテキストであり、あたかも“綱領・聖典”のごとき扱いをされていることの違和感・疑問を考えてみたいと思います。

『市民の図書館』の後継者は?

21世紀の今もって『市民の図書館』の“果てしなきブッチギリ大独走”は“聖典化”と同時に、これに代わる“後を継ぐもの”の“不在”ともいえます。
では、後継者は不在であったか、といえばそうではありません。一例として、平成12年には、日本図書館協会町村図書館活動推進委員会*1による『21世紀の町村図書館振興をめざす政策提言:Lプラン21「図書館による町村ルネサンス」(=以下「Lプラン」という』が登場しています。
私は、とある講習会で、このプロジェクトに携わった糸賀教授直々に、同書にこめられた熱い思いとか意義を受講した思い出があります。いつものことですが、同氏は自信満々に
「これこそ、21世紀の『中小レポート』である」
「これが受け入れられない司書は、司書失格だ」
と述べておられましたね。
結果的にはどう贔屓目に見ても、当時の司書は糸賀先生のいう“失格”ばかりだったようですね。氏(師?)の布教とはウラハラにLプランはあまり重要視されなかったようですから(そのせいかわからないけど、糸賀氏は“失格司書”に幻滅を感じ、のちになって“合格司書=現在の「認定司書」”の養成に奔走したのであろう)。
ならば、内容はといえば、これがなかなかよくできてます。糸賀先生が自信を持つのも無理はない。10年以上たった今でも決して色あせません(『市民の図書館』と較べて、のハナシですが)。
では、なぜLプランはなぜ「不発」に終わってしまったのか、その理由を考えると、Lプランから現在までの図書館員の意識とかが浮き彫りなるというものです。

ピンとこない図書館員

まず第一の理由。最近になってようやく思い腰をあげてきた観のある「IT」ですが、Lプランの時代とは、それが急速に市民社会に普及してきた頃でした。当時の図書館員はそのことを半ば知りつつも、実際の図書館業務に取り入れる戦略眼や知見のある者が少なかったようにみえます。
もっとも、実際には“少なかった”のではなく“少なくはない”と私には察せらます。ITについて一定の見識をもった図書館員は結構多かったが、“少ない”ように見えてしまうのは、彼らが大方のところ「若手」であったから。公立図書館にとっては「職階制」「年功序列」がつきものであったし、日本図書館協会や図書館問題研究会などもそうした性格を大いに含むのは当然のこと。その「若手」の先輩である「中堅以上〜特にオピニオン・リーダーの集中する層」にとっては、あたかも“陸蒸気を前にした馬子”や“トーキーと弁士”のごとく、自らの存在をおびやかすような存在として敵視したりガン無視する者が現れてしまったからですね(もっとも、彼らが実際におびえていたのは「若手の台等」「時代とり残され」であったようだ)。このようなITを無視したり、図書館運営の活用について想像力を欠く者にとっては、画に描いた餅以下のものでしかなかったから、シカトこそすれ、鳴り物入りでジャンジャン拡大させる必要はなかったようです。

「町村普及」という目的を失う

Lプラン21の時代には、“(都)市から町村へ”図書館普及の軸足を向ける機運がありました。『市民の図書館』以降、まがりなりにも(都)市の図書館普及率は高まる一方で、図書館未設置自治体〜おもに町村〜は多かったからです。
しかしながら、ほぼ同時進行で地方分権一括法による市町村再編の動きが高まります。合併特例法の改正が行われ、法定合併協議会の設置や、合併特例債を中心とした財政支援措置がなされ、以降、国策としての市町村合併が政府により強力に推進されます。一般にいう“平成の大合併”ですね。平成11年3月末に3,232あった市町村の数は、平成18年には約6割にまで減少します。
結果として、“名目上”の図書館設置率はおおいに向上しました。図書館未設置のような零細自治体は近隣市町村に吸収合併されたからです(ただし、“実質的な図書館設置(率)”が向上し、すべての市(町村)民が図書館サービスを受けることができたのか、といえばまた別の話になりますが…)。町村の未設置率が減少すれば、町村図書館普及を進める必要はない、という観点からすれば「Lプラン」は最大の目的を達成してしまったワケです。あとは、同書の内容や観点にもとづいて、中小図書館のあり方を点検・議論していけば、21世紀にふさわしい図書館が議論されたことでしょう。ところが、“町村普及”よりも公立図書館にとって脅威となる事態が発生します。

「図書館による町村ルネサンス」から「日本図書館協会による“市民の図書館ルネサンス”」へ

ちょうどそのあたりから「公立図書館無料貸本屋論争」が勃発します。ここで、これまでの“貸出し”を基本とした公立図書館像に批判が投げかけられる一方、大方の図書館オピニオン・リーダーは、あれこれ自分勝手な理由をつけて反論(にもなっていないものが多い)とか“そらし(日本の図書館は欧米に比較して立ち遅れていると主張するなど論点のすりかえ)”を試みます。その中で自分たちの“経典”たる『市民の図書館』を必要以上に弁護・護持を図ろうとします。この“『市民の図書館』ルネサンス”がおこることによって、結果的に図書館界は国体ならぬ『市民の図書館』体制護持に奔ってしまい、結果的にあとからの芽吹き(=Lプランなど)を覆い尽くし埋没させるに十分なものでした。

ブルペンを暖めるだけに終わったエースの「田舎」

このように、Lプランは時代の波にもまれ、その存在感を失っていきました。
一方、『市民の図書館』は、その前時代性・アナクロを批判する人が発生したため、図書館オピニオンリーダーの感情的な反発と愛情・過大評価*2によって支えてこられたともいえます。
ここで、今日図書館界を代表する日本図書館協会の“オリンポスの神々”

日本図書館協会役員一覧
http://www.jla.or.jp/jla/tabid/225/Default.aspx

をみると、常務理事に名を連ねているのは、首都圏近郊の方ばかりです。
これらの方々にとって「田舎=町村」は視野にはいっていたのか、少なくとも地方都市とか過疎地域の在住者・図書館従事者の方々の立場からの図書館普及をするだけの理解も想像力も彼ら彼女にはまったくなかった、と云ったらやはり言いすぎなんでしょうね。あ、そっれて田舎者のヒガミなんだろって! ハイハイ。

*1:当時、現図書館普及委員会

*2:これについては、http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20110804/1312465453 http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20110918/1316328050 をみよ

“5年間だけ安心して働ける”といわれても〜労働契約法の「改正」と図書館司書〜

「労働契約法」改正と図書館員

すでにご存知の方も多いかもしれませんが、「労働契約法」が改正されました。

・労働契約法が改正されました〜有期労働契約の新しいルールができました〜(厚生労働省
 http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/keiyaku/kaisei/

ちなみにこの法律。国家公務員と地方公務員には適用されません。ですから、専ら影響を受けるのは、指定管理者・委託・派遣の図書館員のみなさん、ということになります。

その内容は…

今回のポイントは、次の3つです。

1無期労働契約への転換

有期労働契約が反復更新されて通算5年を超えたときは、労働者の申込みにより、期間の定めのない労働契約(無期労働契約)に転換できる。

2「雇止め法理」の法定化

最高裁判例で確立した「雇止め法理」が、そのままの内容で法律に規定されました。一定の場合には、使用者による雇止めが認められないことになる。

3不合理な労働条件の禁止

有期契約労働者と無期契約労働者との間で、期間の定めがあることによる不合理な労働条件の相違を設けることを禁止する。

評価にとまどう内容ですね。特に、

1無期労働契約への転換

5年間パート・派遣を続ければ、「正社員」になれるというものです。このお膳立ては理想的かもしれませんが、逆に「5年未満」だけの「有期雇用」が増加するだけのハナシかもしれません。
ただし、

2「雇止め法理」の法定化

では、評価できる部分もあります。
また、

3不合理な労働条件の禁止

では、賃金や労働時間等の狭義の労働条件だけでなく、労働契約の内容となっている災害補償、服務規律、教育訓練、付随義務、福利厚生など、労働者に対する一切の待遇が含まれるとあります。
「教育訓練」における差別(相違)の撤廃は、研修・スキルの向上につながる面で有意義なことだと思います。

司書の専門性の蓄積

ここで改めて考えたいのは、「司書の専門性の蓄積」です。
従来、臨時・非常勤などの「官製ワーキングプア図書館員」が増加することによって(公務員は試験採用の原則があるから、長期間の連続雇用は制限されている)個々の専門性の蓄積が失われかねない、という問題がありました。その点地方公務員法等の規制を受けない「指定管理者」等では、継続した長期間の雇用が期待できたワケです。
ただし、今回の改正で「5年未満」の有期雇用は増えますね。確実に。そもそも地方公共団体から「指定」されなければ、雇用そのものがなくなってしまう、そんなリスクの高い状態で「正社員」を抱え込むのは(一部を除いて)考えにくいです。

事業者の不安定

そういうワケで、私は今回の「改正」。一部で評価できる部分は多いけど、理想に走りすぎ現場の実情にまったくマッチしていない、という印象をもちました。
同時に、改めて考えさせられたことがあります。
それは、民間委託・指定管理者について

事業者そのものが「不安定」

であるということです。
従来から、図書館司書の雇用問題は、個々の図書館員の「継続した生活の安定と専門性の向上の確立」がテーマでした。
だが、よく考えてみれば、

民間委託・指定管理制度そのものが事業者の立場を不安定にし、結果としてその構成員も不安定な立場に遇せしめている

と、いうことです。
このあたり、根っこから掘り下げないと、図書館員の労働問題は解決できないのではないか、そう思いました。

救いようのない図書館界にて

いよいよ10月。このブログを閉鎖する月を迎えてしまった。
「閉鎖」というよりも、「休止」のほうが正しいかもしれない。私は亡き父との約束があって、退職後、病院図書館ボランティアをするつもりである。その際、ブログとかはてなダイアリーが存続しているかはわからない。が、ぜひそのときが来たら「復活」させたいと思っている。

もしもの図書館管理職?!

さて、ここで二つの「If」を考えてみた。一つ目は、公立図書館の「館長」とまで欲張らんでも「奉仕係長」とか「分館長」などの待遇で招じ入れられた場合である。
このようなチャンスに恵まれたならば、私は行政職としての経験を活かし、首長部局とのI&Rサービスに力をそそぐとともに、フロアワークを重視し利用者との対等な立場からの対話と、そこから導かれるヒント・教訓などを活かしサービスの向上に努めただろう。
もちろん、“ほどほどに”の範囲で
貸出し伸ばしゴッコ
を秘かに愉しみ、それなりの結果・成果を残せると思う。私には知見経験に裏付けられた自信がある。

もしものワープア?!

と、まぁ、このように大見得を切ると自信過剰なバカにしか見えないと思うが、そこで二つ目の「If」の場合。
これはどこぞの人材派遣会社とか指定管理者受託企業に「ヒラ(無論、時給制・有給休暇等福利厚生なしに等しい、時間給はその自治体の最低賃金)」で採用された場合である。この場合、上層部やウラに控えしクライアント=地方自治体にガンガン論争をふっかけ、さんざんやり込めたあげく「反抗的」とみなされ、一発でクビになる。なまじこれまでの経験とか知見の実績があると「道場破り」に走る。昔の「道場破り」では相手の主を倒してしまえばその「道場」をのっとることができるが、現在では「道場を破ったら雇用契約も破れる」ものと心得たい。かつてGF長官山本五十六は太平洋戦争の見込について

初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。

と云ったと伝えられるが、私の場合は

初め半年や1年の間は随分従順・服従に服務してご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全くダメだろうという確信はアリアリだ。

というのがオチ。まったくもって、これでは生活以前にお話にならないではないか。

この「格差」はなんだ

実は、ここまでバカなこと書いて、ようやく背筋が凍る思いがした。同じ「私」であっても待遇もなにもすべて大違い、“天国と地獄”以上の差ではないか。
が、現実にはこのような「格差」はありえる。
一定の立場・ポジションを得てしまえば、政策提言は歓迎されるし前向きな「ダメ出し」も許容されよう。
しかし「底辺」にあるライブライアンがそのような態度をとればどうなるか、まったくわかったものじゃない。
その氷山の一角を話そう。

マネージャーの交代と「第三の(人生の)男」

実は、勤務している職場に隣接している「図書館分館」のマネージャー格の委託さんが交代した。
最初は、いまひとつ感がぬぐえなかったものの、あるきっかけを通じてはりきっていたのに…
年度途中であるし、びっくりしたが、その年齢から察するに「寿退社」だと察していたのだが…
次の日、喫煙所に一人の男を見かけた。彼は図書館が直営オンリーだった時代に長く勤め(ていたワケだから私の「先輩・同僚」といっていい)、定年退職後は委託会社の図書館とかについての顔役になっているらしい。このブログでの私は過激なことばかりしゃべってるけど、職場では「上下関係」を重視する“昭和の公務員”でもあるから、相手から親近感をもって近づいてきた。
けれども、退職金で買ったというV8・3リッター以上のドイツ製高級車をよりによって車イス専用の駐車場に止めたのには立腹し、ナチの高官がメルセデスを愛用していたエピソードを思い出して反感は増すばかり(ヒガミのように聞こえるけど、「この野郎!山に出ろ!!」と、峠道走らせれば、我が6気筒の方が速いぞ。絶対。)。

使えないからクビ

件の“マネージャー”についてハナシが及ぶと、
「アイツはクビだ。使えなかったから…」
と、当然のように云う。
判官びいきで云うつもりはないが、私にとっては、

  • 少しばかりドンくさいところはあるが、常に礼儀正しく、笑顔の人であった。ま、「マネジメント」に欠けていても、図書館のカウンターを安心して任せられるかな
  • 足りない点は山ほどあるけど、育てればちゃんと伸びるな、コイツ

と、いう印象であったから驚いた。
その後の会話でやはり「マネジメント」に欠けたのが決まり手だったようだ。それはカイシャの判断だから仕方ないこと。でも、ならば本人に学習させるとか、指導するとか「再生」への道筋もあっただろうに。それでもダメなら「ヒラ」に降ろして使ってやればいいのに、と思う。思ったことはすぐ口に出してしまうのは私の悪癖。
すると、相手はさも不思議そうに“何がおかしいのか”といわんばかりに
「そんなメンドーなことはしないよ。代わり(の司書)は、掃いて捨てるほどいるんだからさぁ…」
私は、このエントリを『女工哀史』になぞらえて『司書哀史』というタイトルをつけようと思っていた。けれども、そのセリフを吐いた彼の表情から連想したのは明治の職人頭ではなく、より昔の「女衒」であった。
もはや、明治は遠くなったが、江戸以前に近づいているのかもしれないな…この国は。

館(トリデ)の上にわれらの世界を?

私の図書館員集団への違和感

私が、はじめて図書館の世界に足を踏み入れてから20年近くになります。行政職>図書館>行政職という流れの中で、地方公共団体全体からみた公立図書館との違和感・異質感を終始感じ続けていました。
私は当初、この違和感のようなものは自分の館(地方公共団体)だけの問題ではないかと思ってましたが、日本図書館協会などに参画し数多の図書館員に接する中でさらに深まるばかりであったように思えます。
いま、あらためて思い返すと、図書館業務というものが“地方公共団体の一事務”ではなく“図書館運動(の、ようなもの)の具体的方策”として位置づけられたような印象があるのです。
以下、自分の体験をもとに考えてみようと思います。乱文ですが、どうせ誰も読む人はいないでしょうから。

「格子なき図書館」は「人民解放軍」の手で解放されなければならぬ

私は、司書講習の「図書及び図書館史」の科目で『格子なき図書館(Libraries without Bars)』という映画を視聴する機会に恵まれた。GHQ−CIEによるこの映画を見て、ライブラリアンの卵である私は大いに感銘した。借りるまでに大変な手間がかかった蔵書閉架式を「格子」になぞらえ、それに替わって出現した、明るく解放的な図書館像が紹介される。
また、“ハコモノ”意識の強かった図書館を“移動図書館サービス”というアイディアにもおおいに感心した。
もし、図書館員や、図書館の設置を夢見た人たちが、米国の公立図書館の豊かで洗練された施設設備とそれがもたらすサーヴィスを夢見たのであれば、図書館員および図書館をとりまく人々はおのずと親米的になり、日米軍事同盟・安保条約にも肯定的な考えをもつようになったかもしれない。ところが実際には反対の「革新」的な考えをもつ人たちが出てくるのである。この場合、「革新」とはいっても既成の革新政党であって、新左翼でない。
また、公務員は政治的活動はご法度だからあからさまな態度・行動を出すことはなかった*1
ただし、「革新」への流れは、当時の文筆家をはじめとする“進歩的文化人”の影響もあり、図書館員が彼らの著作活動等に影響を受けやすい存在であったことも事実である。
また、六全協から左翼冒険主義・武力革命を排除し平和的革命・ソフト路線へと路線転換した日本共産党への支持が集まっていた時期でもあった。
つまり、「格子なき図書館」という閉鎖・閉架からの“開放=解放”は、あくまで“人民解放軍”によるものでなければならず、“進駐軍(GHQ−CIE)”によるものと“認めたくないものだな”という感情がみてとれる。

図書館法を捨て、中小レポート・市民の図書館へ

図書館法の制定は“曲りなり”にできたものであり、GHQ−CIEからゴリ押しされたという、いびつな感情があったかもしれない。
現在なお、図書館員が教育基本法>社会教育法>図書館法などの法体系について悲しいくらいに無関心さは、このあたりが出発点なのだろう。

すべての権力をソビエトに! で、すべての図書館運営は?

図書館法に重きをおかない知識人的図書館員は、図書館法としての重みのなさ、特に国家の補助政策・地方自治体への必置規制がないからザル法だという。この批判はまったく的を得ていない。
当時は、日本国憲法でうたう「地方自治の本旨」があり、今でいう地方分権が予定されていた。薩長政府以来の「中央集権」が「軍閥政治」へと変質し、結果的に破滅的な戦争へと進んだ反省から「地方自治」「社会教育」の充実が必要とされたのである。このような図書館法制定の背景を顧みずに批判を行なうのでは、「木を見て森を見ず」の愚に陥っても仕方のないところであった。
同時に、公立図書館が“地方自治の本旨”に依拠し、その健全な発展に資するべき存在であると同時に“地方自治の本旨”に基づいて運営されることを定めた「図書館法」は相容れない存在であったかもしれない。当時の図書館員がシンパシーを感じた「共産主義」は、バリバリの「中央集権」であった。“ユナイテッド・ステーツ”とは対極といってもいい。ま、当時の図書館員には「地方分権」「地方自治」そのものへの理解を期待するほうがまちがっているかもしれない。

中央人民政府にいちばん近い都市

「法」を軽んじたとはいえ、「法」にかわる“よりどころ”として“綱領”のようなものが必要だ。そこで現れるのは『中小レポート』であり『市民の図書館』であった。
実際、『中小レポート』から『市民の図書館』により確立された“貸出し中心路線”というのは、図書館活動を総花的・例示的に列挙した図書館「法」へのアンチテーゼともいえる。
ここで、『中小レポート』を実践し『市民の図書館』を確立した日野市に目を転じてみよう。

  • 資本主義から共産主義への移行は“高度に資本主義が発達した国家=近代的・工業国家”が予定されていた。日野市には、バス・トラックで有名な日野自動車をはじめ、オリエント時計など、精密工業の盛んな土地であった。
  • 数を減らした「革新自治体」に森田市長が最後まで踏みとどまった

加えて、三多摩ぜんたいに視野を広げれば、

これらを加味すると、1950〜1970年代の日野市は「中央人民政府」に日本でいちばん近い時代・都市といえるのである。

改めて、市民活動と図書館員

市民活動とは、市民が自らの価値観、信念、関心に基づき、自分たちの生活とコミュニティの貢献を目的に、自発的に行う活動と解される。
図書館づくり(市民)活動に図書館司書が参画し、プロとしての知見を活かして貢献したことは評価すべきことである。今日いうところの“コラボ”“協働”のはしりであるともいえる。
市民運動とは、市民が自らの価値観、信念、関心に基づき、自分たちの生活とコミュニティの貢献を目的に、自発的に行う活動と解される。その活動からみれば、自分たちの主張とか要求を集約し、関係機関なりに要請・主張・批判することが目的といってもいい。悪い言葉でいえば、“主張するだけの存在”であって、責任はない。
地方公共団体職員(行政職)のスタンスは、これとは大幅に異なる。行政では、多種多様の要望・ニーズを、法令や行政の公平性、財政面や地域の事情など複雑かつ多種多様な要素を考慮し、また上級官庁の指示・指導等にも配慮しつつ選択していかなければならない(ま、要約すれば行政職に必要なのはバランス感覚である)。また、市民団体の構成員と最終的な差は“継続と責任”である。
その過程で市民運動家より提示された要求・要請の全部ないし一部を受容れがたい場合もある、というより多くのケースがそれに該当するから、市民運動は継続して要求活動を行い、行政とは敵対関係とまではいかなくても緊張関係にある場合が多いし、市民運動の提言や監視・チェックが行政に対し結果的によい結果をもたらすこともある。
図書館職員がプライベートな立場で、市民運動に携わるのは結構である。ただし、公務としての図書館員と、私人としての市民活動とは、一定の分別が必要である。
このあたりの「分別」をつけることなく、行政の中にあって“要求・主張・批判的立場をとる市民活動”的な図書館員が多かった。そして職能団体とか問題研究会の存在がそれを助長したともいえる。
図書館員は“館(トリデ)の上”に“我らの世界”をつくったのかもしれない。ただし、その“館(トリデ)”が、地方公共団体の上にある、とまで認識している図書館員はどれだけいますかね…

*1:のちに「プロ市民」「隠れ左翼」と呼ばれるようなライブラリアンが存在し、独善的な行動をとったことが顕在化した例として「船橋蔵書事件」がある