復習するは我にありだが、予習はより重要だぞ! 分科会(図書館講演会)の困った人たちリターンズ

私の勤めている図書室の民間委託がだんだんあわただしいものになってきました。

前に書いた、“ノラ司書”ともいうべき人たちの存在は自分の身の置き所というか、「所詮じぶんはこんなもの」ということが見えてくる。
私が司書の仕事を続けたいと思っていても、世の中には無職の司書がたくさんいらっしゃる。ということは世間が社会が「司書としての私」を必要としていない事実を教えてくれるからである。
「お前のかわりはいくらでもいるんだぞ!」

同時に、このブログをお読みの方はお気づきであろうが、私は頭がわるい。特に自分の頭の中でものごとをまとめて、文章にする作業は不得手である。(前にそっち方面の医師の診察を受診したこともある。その場では「気のせいですよ」)と言われたが…)

よくも頭の悪い自分が15年の長きにわたり図書館の仕事を続けてきたものだと思う(もっとも、その裏返しで、図書館司書の仕事も俺にも務まるんだからチョロイものよ…という自嘲的な専門性の否定もしてしまうが…)
が、同時に頭の足りない分を補うために研修会にはよく足を運んだ。とくにIT関係の自分にとって不得手な分野はとりわけ、力をいれたつもりである。業界人は自分の得意分野をのばすことに夢中になるが、おバカ職員はとにかく「補う」「ギャップを埋める」ことが大事だと思ったからなぁ。悲しいかな、不得意分野では「歯が立たない」ことが多かった。にもかかわらず、あちこち齧り続けたせいで、もう私の歯はボロボロ…総入れ歯ならぬ“総付け焼歯”になってしまったんだよなぁ…歯ッ、歯ッ、歯ッ!

自分としては、最大の欠点は理解力の不足。わからない言葉が出てきたときには、そのいわんとすることを考え込んでしまって、頭が一時停止し、(その間にもレクチャーは間断なく進んでいってしまうから)遅れが生じたり重要なまとめを取りこぼすことが多かった。特に最近、40歳を超えた途端にますます物分かりが悪くなり、ペースについていけないことが多かった。(特に大学の先生などでは苦労した。普段頭のいい人や学生(10代後半から20代はじめのもっとも頭脳が活発な人たち)を相手にしているだけあって、話の進みがものすごく速い)
だが手をこまねいていたわけではない。講習会への参加が決まると、いろいろ情報を集め、予習をしていた。といってもそんなにがんばったわけではない。NACSIS Webcat等で講師の著作を調べたり、専門の研究内容等をチェックしたりようそうされる専門語をピックアップしておいたりすることぐらしかやっていない。
が、案外そのような簡単な予習であっても効果は予想以上のものであって、時には主催者側担当者のそれを上回ることも少なくなかったのである。

一番残念なことは、その予習ができにくい場合があるということ。東京のそれなりの団体が著名講師を呼べば、予習のための情報はいくらでも手に入る。が、新進気鋭の学者や地方の研究者をまねいた場合などはどうしても情報の入手に苦労することになる。

一番腹立たしいのは、講義要項もほとんど用意されてない状態で、若手の先生が発表されたとき。で、話題が文系人間の集まりにとって不得手なIT関係ということになれば、昼寝・雑談も多くなり、教室からほとんど全員あくびしながら会場を後にするわけだが案外こういう時に限って、主催者側館長補佐らしき人物が満面の笑顔で
「どうぞ、みなさん。ぜひ本日は十分復習されましたうえで、明日からの実務にお役立てください」
といったことをしゃべるのは、遠足帰りの教頭先生が「一人ひとりが家に帰るまでが遠足だ!」というセリフ以上の月並みさを感じるし、なによりも
「復習」しろというなら「予習」もさせろよな!
と言いたくなるではないか。
で、この「予習」。一番効果的なことは参考文献、というか推薦書数点を講師にピックアップさせ、参加者でに読んできてもらうのが一番いいだろうと思う。もちろん半分近くはおそらく読んでこないだろうがそういうバカ中のバカはスルーしちゃえばいい。
この事前必読文献を主催者と講師で協議することもまた、講座の適正化に寄与すると思う。たとえばこんな会話
 主催担当「先生、指定文献に○×紀要の一文はやめてくださいよ。市町村立図書館では入手しずらいと…
 講師  「そうか、では「現代の図書館」のこの文でもどうか?」
 主催担当「それも難解すぎます。今のところ参加職員には新規採用者や事務職も含まれています」
 講師  「そうか、ならば、講演内容も変えるか」
ということで、参加者・公募者の理解の程度や目的にかなった運営にちかづくではないか.

聴き手のニーズと、講師の云わんとするところがミスマッチにより双方やりきれない思いをすること
 http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/memorandum/2009/10/web-afab.html
(あ、↑のトラバ、承認されていない可能高いけど)
で、またそれに付随して反省する必要のない人間が反省してしまうようなこと
 http://d.hatena.ne.jp/yoshim32/20091026/1256534408
などの無用な労力もありえなくなるのではないか。

演者と聴衆とのあいだをつなぐプロデューサー的役割は重要だ。

私は先ほどの件で、チャイコフスキー作曲のバレエ音楽白鳥の湖』OP20を思い出した。

チャイコフスキーの代表作でもあるこの作品、1877年3月4日 モスクワ・ボリショイ劇場バレエ団による初演では、無能なヴェンツェル・ライジンガーの振り付けや魅力的でないプリマの起用で失敗作の烙印を押されてしまう。この事実はどんな名曲であってもお膳立てすべて整えてやらなければ、失敗することを語っている
白鳥の湖』はチャイコフスキー死後、プティパ=イワノフにより蘇り高い評価を得る。
が、チャイコフスキーは『白鳥の湖』初演の失敗に懲りて、以後10年以上バレエ音楽は書かなかった。私はもし『白鳥の湖』初演が成功を収めていれば、次の『眠りの森の美女』まで待たずに数々の作品を書き「3大バレエ」は4にも5にもなった可能性があったと夢想している

ところで、いよいよ図書館大会がはじまる。先日参加確認書がおくられてきた。
参加証と簡単な事務通知(諸注意を述べたモノ、会場地図すら入っていない!)1枚がはいっているだけである。
JLAの会員サービスなんてこんなもんだろうな…
あの著名な千代田図書館の協力をとりつければ、名所案内・ランチマップなどの気のきいたものを用意してくれたと思うが、指定管理者・委託反対をどうしてもいいたい老害のことを考えればしかたないかな…(私はJLAで自前ホームページをもたない、“日本図書館協会図書館政策企画委員会”のアジトは“中央区新川”ではなく“千代田区三崎町”にあるんじゃないかとふんでいる)

この参加証の封筒の中身をのぞいた時から、参加意欲がなくなるとともに、当日の運営推して知るべしということになってしまった。
当日は、あんまり聞くに堪えないコトやっていたら、さっさと退場して(最前列から松岡洋右みたく“我が代表堂々退場す”)万惣フルーツパーラにでもいって銅板焼きホットケーキを食べ、後味の悪さを払しょくしようかとも思っている。