『市民の図書館』果てしなき独走の理由。

前々回のエントリで、『市民の図書館』の成立について考えてみました。
わかりやすさが身上の“貸出し重視”は、当時の図書館員の支持することになったことは周知のとおりのことでした。
私は、過去のエントリで、巷でいわれる『市民の図書館』大成功の裡には、同書の“成果”のほか、

  • モータリーゼーション
  • OPACによる“一人当たり貸出し冊数の増加”

が与えた影響なり追い風があったことを指摘したと思います。
今回は、なぜ成立から40年以上の歳月をへている『市民の図書館』について、今日なお、公立図書館員のテキストであり、あたかも“綱領・聖典”のごとき扱いをされていることの違和感・疑問を考えてみたいと思います。

『市民の図書館』の後継者は?

21世紀の今もって『市民の図書館』の“果てしなきブッチギリ大独走”は“聖典化”と同時に、これに代わる“後を継ぐもの”の“不在”ともいえます。
では、後継者は不在であったか、といえばそうではありません。一例として、平成12年には、日本図書館協会町村図書館活動推進委員会*1による『21世紀の町村図書館振興をめざす政策提言:Lプラン21「図書館による町村ルネサンス」(=以下「Lプラン」という』が登場しています。
私は、とある講習会で、このプロジェクトに携わった糸賀教授直々に、同書にこめられた熱い思いとか意義を受講した思い出があります。いつものことですが、同氏は自信満々に
「これこそ、21世紀の『中小レポート』である」
「これが受け入れられない司書は、司書失格だ」
と述べておられましたね。
結果的にはどう贔屓目に見ても、当時の司書は糸賀先生のいう“失格”ばかりだったようですね。氏(師?)の布教とはウラハラにLプランはあまり重要視されなかったようですから(そのせいかわからないけど、糸賀氏は“失格司書”に幻滅を感じ、のちになって“合格司書=現在の「認定司書」”の養成に奔走したのであろう)。
ならば、内容はといえば、これがなかなかよくできてます。糸賀先生が自信を持つのも無理はない。10年以上たった今でも決して色あせません(『市民の図書館』と較べて、のハナシですが)。
では、なぜLプランはなぜ「不発」に終わってしまったのか、その理由を考えると、Lプランから現在までの図書館員の意識とかが浮き彫りなるというものです。

ピンとこない図書館員

まず第一の理由。最近になってようやく思い腰をあげてきた観のある「IT」ですが、Lプランの時代とは、それが急速に市民社会に普及してきた頃でした。当時の図書館員はそのことを半ば知りつつも、実際の図書館業務に取り入れる戦略眼や知見のある者が少なかったようにみえます。
もっとも、実際には“少なかった”のではなく“少なくはない”と私には察せらます。ITについて一定の見識をもった図書館員は結構多かったが、“少ない”ように見えてしまうのは、彼らが大方のところ「若手」であったから。公立図書館にとっては「職階制」「年功序列」がつきものであったし、日本図書館協会や図書館問題研究会などもそうした性格を大いに含むのは当然のこと。その「若手」の先輩である「中堅以上〜特にオピニオン・リーダーの集中する層」にとっては、あたかも“陸蒸気を前にした馬子”や“トーキーと弁士”のごとく、自らの存在をおびやかすような存在として敵視したりガン無視する者が現れてしまったからですね(もっとも、彼らが実際におびえていたのは「若手の台等」「時代とり残され」であったようだ)。このようなITを無視したり、図書館運営の活用について想像力を欠く者にとっては、画に描いた餅以下のものでしかなかったから、シカトこそすれ、鳴り物入りでジャンジャン拡大させる必要はなかったようです。

「町村普及」という目的を失う

Lプラン21の時代には、“(都)市から町村へ”図書館普及の軸足を向ける機運がありました。『市民の図書館』以降、まがりなりにも(都)市の図書館普及率は高まる一方で、図書館未設置自治体〜おもに町村〜は多かったからです。
しかしながら、ほぼ同時進行で地方分権一括法による市町村再編の動きが高まります。合併特例法の改正が行われ、法定合併協議会の設置や、合併特例債を中心とした財政支援措置がなされ、以降、国策としての市町村合併が政府により強力に推進されます。一般にいう“平成の大合併”ですね。平成11年3月末に3,232あった市町村の数は、平成18年には約6割にまで減少します。
結果として、“名目上”の図書館設置率はおおいに向上しました。図書館未設置のような零細自治体は近隣市町村に吸収合併されたからです(ただし、“実質的な図書館設置(率)”が向上し、すべての市(町村)民が図書館サービスを受けることができたのか、といえばまた別の話になりますが…)。町村の未設置率が減少すれば、町村図書館普及を進める必要はない、という観点からすれば「Lプラン」は最大の目的を達成してしまったワケです。あとは、同書の内容や観点にもとづいて、中小図書館のあり方を点検・議論していけば、21世紀にふさわしい図書館が議論されたことでしょう。ところが、“町村普及”よりも公立図書館にとって脅威となる事態が発生します。

「図書館による町村ルネサンス」から「日本図書館協会による“市民の図書館ルネサンス”」へ

ちょうどそのあたりから「公立図書館無料貸本屋論争」が勃発します。ここで、これまでの“貸出し”を基本とした公立図書館像に批判が投げかけられる一方、大方の図書館オピニオン・リーダーは、あれこれ自分勝手な理由をつけて反論(にもなっていないものが多い)とか“そらし(日本の図書館は欧米に比較して立ち遅れていると主張するなど論点のすりかえ)”を試みます。その中で自分たちの“経典”たる『市民の図書館』を必要以上に弁護・護持を図ろうとします。この“『市民の図書館』ルネサンス”がおこることによって、結果的に図書館界は国体ならぬ『市民の図書館』体制護持に奔ってしまい、結果的にあとからの芽吹き(=Lプランなど)を覆い尽くし埋没させるに十分なものでした。

ブルペンを暖めるだけに終わったエースの「田舎」

このように、Lプランは時代の波にもまれ、その存在感を失っていきました。
一方、『市民の図書館』は、その前時代性・アナクロを批判する人が発生したため、図書館オピニオンリーダーの感情的な反発と愛情・過大評価*2によって支えてこられたともいえます。
ここで、今日図書館界を代表する日本図書館協会の“オリンポスの神々”

日本図書館協会役員一覧
http://www.jla.or.jp/jla/tabid/225/Default.aspx

をみると、常務理事に名を連ねているのは、首都圏近郊の方ばかりです。
これらの方々にとって「田舎=町村」は視野にはいっていたのか、少なくとも地方都市とか過疎地域の在住者・図書館従事者の方々の立場からの図書館普及をするだけの理解も想像力も彼ら彼女にはまったくなかった、と云ったらやはり言いすぎなんでしょうね。あ、そっれて田舎者のヒガミなんだろって! ハイハイ。

*1:当時、現図書館普及委員会

*2:これについては、http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20110804/1312465453 http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20110918/1316328050 をみよ