図書館員にとって資料費はそれほど大事なのか?

図書館員のボヤキがきこえてくる…
予算要求・折衝の季節(?)になりました。
きびしい経済・財政の中で、図書館員の悲鳴やボヤキが聴こえてきそうです。
「資料費こそ図書館にとって重要である」
「資料費こそすべて!」
と言い切る図書館員もいます。
たしかに、経済的なしばりがかかり、さながら、兵糧攻めにあったように感じている図書館員は多いでしょう。
私は同情はおぼえますが、自らの経験からいわせてもらえば、少し違和感を感じてしまいます。

かつて、東郷平八郎は、
「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」
と語ったそうです。これは、訓練の大切さを語った言葉ですが、昭和の軍人は、このセリフを額面通り解釈して、少数精鋭でも大量の烏合の衆に勝てるとばかり、相手を斃せると勝手に思い込み、米軍の物量作戦に圧倒されましたっけ*1。ホンネをいえば、“百発百中の砲百門”が理想なのは誰でもわかります。
さて、ハナシを図書館に戻しますが、それなりの、図書館にいけば数万冊以上の本があります。
しかし、我々がそれを全部読むわけにはまいりません。
だからこそ、図書館員は選定の技術を磨いていただたなくてはなりません。
まぁ「百発百中」は、さすがにあり得ない(笑)でしょうが、それなりに“命中率”をあげていただきたいと思います。
バブルの頃は、資料費も潤沢でしたから、
大量選定>大量発注>大量貸出>大量除籍
のサイクルが出来上がってしまいます。
これでは「無料貸本屋」論争が起きるのもむりのないことでしょう。
しかし、このどうでもいい「無料貸本屋論争」に、日本図書館協会・出版流通委員会の当時の方々がまた、どうでもいいような反論をしておりました*2
「欧米はじめ先進諸国において、図書館の設置や資料費が劣っている」
ことを用いて反論していこうと、当時の委員長が云っておりました。
“まるで、「決起集会」みたいだな”
と、思いながらも、
ここで「司書職」の存在意義についてまったく触れていないことがバカげているとおもっていました。
無料貸本屋」と「図書館」とが決定的に違うのは、「司書」という専門職員の存在を抜きにしては語れないからです。

まとまらないハナシになってしまいましたが、
選書こそは、司書の腕の見せどころであり、カネとしての資料費、モノとしての資料に命を吹き込むことが司書の仕事です。
ちなみに、私は「筋金入りの貸出至上主義者」ですから、選定についてはそれなりの自信があります*3。私は、移動図書館を担当してきたからです。移動図書館は、ペイロードそのものが制限されているうえ、どこを巡回するかによって、積載する資料を度々替えていかなくてはならない、毎日が選定会議のようんまものですから。

さて、前述の東郷平八郎ですが、ワシントン軍縮条約で、戦艦の保有比率が対英米の6割と低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」
と語ったとされます。
その例に倣い
「創意工夫に制限はない」
と、云いたくもなりますが、とにかく、司書のみなさん。
“モノ(資料)”や“カネ(資料)”よりも、とにかく自分自身を大事にしてくださいね。

*1:もちろん、このセリフには批判する人もいて、海軍兵学校長の井上成美大将は“敵の初弾が1/100の確率で味方の砲に当たった場合、反撃できなくなる”と、精神主義への幻想を批判しています

*2:いつぞやの全国図書館大会の出版流通にかかる分科会にて。いつ頃のことだったか忘れた

*3:“オレの右に出る者はいねぇ。”と言うつもりでしたが、高速自動車道では、もっぱら「左=走行車線」を走り「右=追い越し車線」のクルマに抜かされていますので、いわないことにする。しかし、200キロ以上の性能のクルマで軽に抜かれるとは…