若者はお年寄りに席を譲りましょう。お年寄りは若者にさっさとマイクを譲りましょう

最近なにかと話題になるのが図書館雑誌の表紙。賛否両論があるようだが、圧倒的に「否」の声が多いようである。
私自身はといえば、なかなかいいイラストではないかと思う。特にダークファンタジーやホラー系の同人誌にはもってこいの作品だ。JLAも「専門職集団」⇒「カルト集団」⇒「オカルト教団」へと弛みなく進歩しているからこそ、ぴったりマッチングしていると思わんか?

で、そのオカルト教団大祭…じゃあなかった図書館大会のことで、先日このブログで誤った発言をしたことをお詫びしたいと思います。
誤った発言とは
「困ったひとたち」にガンとばしてやろう
ということで、今更ながら気がついたんですが、もともとKY(←私自身はあまり好きな言葉ではないが)な人間を睨みつけたところで、そんなものどこ吹く風ってことなんだなぁ。浅はかだねぇ>自分

そんなワケで、今日はその代替えとして引き続き「困ったひとたち」について考えますが…

図書館員のコミュニケーションスキル不足は、なにかと話題になることが多い。一番それを耳にするのは講習会等の講師の余談である。特にK大学のI先生は毎回このことに言及しているような記憶がある。このような講師の場数を踏んだ方々からその種発言が多いのは、やはり後援会の「質疑応答・討議」での困った経験からか?

でもねぇ。身内びいきをするわけではないが、図書館員のコミュニケーションスキルは、特段劣っているとは思えない。ここでの焦点ともいえる「質問力」についてもしかり。そうでなければ、高度なレファレンス・ワーク〜特にレファレンス・インタビューからクエスチョンの処理にかけて〜がうまくいくはずがない。

で、いろいろ「困ったひとたち」出現の条件とタイミングについて過去の経験をもとに思い返す中で、参加者(聴衆)・主催者(司会)双方の問題を考えてみた。

聴衆の問題〜話さずにはいられない人たち

日ごろから思い悩んでいること、考えていることがあり、それを誰かに話したい要求で仕方のない人たち。本人は真摯かつ切実さゆえ、その発言には考えさせられること、スルーできないような問題提起、新しいアイディアなども出てくるが、いかんせん「グチ」として聞こえてくる内容が大半をしめる。ちなみに個人的に一番腹立つのは自分の自慢話を吹きまくるヤツ。そんなに持論に自信あるなら「現代の図書館」に投稿しろヨ

主催者(司会)による進行のマズさ

主催者としては、参加者から活発な発言を求めたいところである。が、とにかく発言を求めようとするあまり、
「なんでも結構です」
と発言するため、“結構毛だらけ”な発言であふれる。

こうしてみると、まず「困ったひとたち」は案外「困っているひとたち」が多いことに気づく。それぞれが差し迫った問題に悩み、ムンク「叫び」のように「語らずにはいられない」のであろう。心中はお察ししますが、しゃべりたい人全員に発言させては、それこそオールナイトでやらなくてはならなくなるが、限られた時間ではなんとも

今までの経験からみると、やはり司会の仕切り方がマズい場合が多い。
主催者側がどのような人選をしたのか疑おすいたくなることもある。
特に良くないパターンは、参加者からとにかく発言を引き出そうと“無制限・無秩序・無関連”の質問を許してしまうことだ。もちろん、最初は講師への質問、主題への意見を求めてくる。ところが、そのあと参加者に考える時間を与えることなく、司会者が性急に「なんでもどうぞ」と間髪を置かずよびかけることで、関係ない発言が続出する。これが自分の見てきた「崩壊のメカニズム」である。

一見簡単そうで、実は難しいのが「司会」というもの。でも「司書」として系統立てて「書」を「司」っているのが生業であれば、そのセンスをいかして、きちんと司会(=「会」を「司」る)ができないものかなぁ…

そこで提案。いまどき司会やらせるなら若けぇ衆にやらせてみてはどうか? ディベートやプレゼンテーションを(一応)取り入れた学校教育を受け、仕切り方を合コンで鍛えた若い人の方がよほどうまくできると思うのだが…