天災の“主観的な記録”の収集・保存・提供を「文学館」に願う〜文学館研究(部)会発足に寄せて

朗報です。
id:literarymuseumさんが、ついにやりました。

・改めて文学館研究会を始めます(Literary Museum Studies 2011-07-01)
 http://d.hatena.ne.jp/literarymuseum/20110701/p1

かの人物とは(今からは信じがたいことですが)かつて対等な立場で議論を楽しんだことがありました。
こちら絶頂期から急降下して墜落炎上する前で、ちょうどあちら様がスペースシャトルのごとく急上昇をしている頃でしたから、ほんの一瞬のすれ違いだったのでしょう。
さらに記憶をたどってみると、かなり生意気なことまで書いています。

・文学館条例を眺めて気がついたこと
 http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20100202/1265113058

その後は、コチラの方で無責任にあれこれ「期待感」という大きなお世話サマーなことばかり申し上げていたような…反省してはおりますが、実はそれ以前から、
図書館員は「文学館」に興味関心をもつべきである
という持論がありましたから、
これからは自分のこれまでの研究成果を学生たちに伝える形で、文学館のこれまでとこれからのことを考えられるような学生を育ててみたいと思っています。
とのご発言は、我が意を得たり、頼もしい限りです。
さて、私の地元の文学館

萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち文学館
 http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/

で開催中のイベント
「その時3・11〜震災詩と写真展〜」
萩原朔太郎賞受賞者が書いた震災詩(3編)と震災写真(約60点)を展示します。
先の大震災の「記録」は文書・映像ともに保管され、教訓や人類共通な記憶として残されるでしょう。
ここで、重視されるのは、「客観性・事実性」に基づく記録でしょう。
博物館が所蔵しようとする事物・写真(映像)はリアリズムそのもです。
図書館で収集・保存・提供されるものも、まずは、客観的な新聞・雑誌・統計の類が優先されますし、ルポルタージュ文学(NDC916)も“客観的が高い描写”が、高い評価を受けるものです。
このようなことから、「客観性ある記録」が重ねられていくことでしょう。
「はたして、それだけで十分か?」
私は思います。
私が公民館図書室に勤務していたときです。戦争と平和に因んだ図書の展示・映画の上映とともに、先の太平洋戦争の従軍・被災・被害を実に体験された方にその経験を語っていただく会を企画しました。ところが、従軍者など戦争体験者は鬼籍に入られてしまうか“寝たきり”生活を送ったりして、とても不特定の方々に「語り」をいただける方は皆無に等しい(後に1名の方を利用者さんらからの協力で探し当てることができました)ことでした。
歴史の風化というものは、避けることができませんし、実体験者の記憶も時間の経過とともに薄れる中(忘れたくて仕方のない人も多いと思いますが)、あの未曾有の天災がわが国の歴史的出来事として「記録」されるためには、体験の客観的な研究や記録の重要性と、主観的な記憶が宿るアート表現(文学・絵画)、日記・手紙の類など、「主観的な記録」の収集・保存・提供を進めなくてはいけないでしょう。
このような個々人の実体験なり心象風景を「記録」するには「文学館」こそが適任といえます。
また、アート表現は文字情報だけではなく、絵画や造形などの美術もあり、「絵手紙・絵日記」のような両者のハイブリッドもあります。文学館はとらえどころがないゆえに、「ゲリラ的に」博物館・図書館、そして美術館とも有機的なつながり・交流の橋渡しをする機能を期待したいと思います。

まぁ、id:literarymuseum先生。無理難題にインネンつけてしまいました。が、ともあれ、貴下学生さんにあっては「図書館司書」だけにとらわれない人材の育成を望みますし、おそらく、そのような立派な人材が輩出することを私は確信いたします。
ご健闘を!