MLAKこそが、成長する有機体である〜対立から共有へ〜

図書館公民館相争い、余力をもって市民(利用者)サービスを行う

先の太平洋戦争では、
「陸海軍相争い、余力を持って米英と戦う」
と云われるほど、陸軍と海軍は対立ばかりしていたようです。
本当は、同じ「軍隊」という組織に属する以上、相携えて共通の敵と立ち向かわなくてはならないはずですけどね。
私の限られた経験では、
「司書@図書館=L」

「社教主事@公民館=K」
の相性は、陸海軍ほどヒドくはないが、良いとはいえなかったように思えます。
司書の仲間内、特に先輩方は社教主事を評していわく、

  • プライドがあり、お高くとまっている
  • 上から目線で話す

等々。
もっとも、これらのセリフ。行政の内部で一般行政職が司書に対して陰で語るときに高頻度で出てきます。まぁ、司書や社教主事のような専門職は多かれ少なかれ、そういうことを云ったり云われたりしているもの。お互いさまでしょうか…
私の個人的な感想(偏見)ですが、社教主事の方々は司書に比べて明朗快活な方、フレンドリーな方が多いという好印象がありますが、

  • 話が長い(熱く語りすぎ)
  • 機先を制してひとの話をすぐまとめようとする(いわく「ようするに、あなたの話は××なんですね」とか)

印象は確かにあります。
集会などで、司書の人が発言すると(場慣れした例外は別として)、どこまでも「会話調」マン・ツー・マンでしゃべっているような印象です。
これに対して、社教主事は、たとえ一対一でも「演説」「講義口調」で話す印象があります。
加えるに、特に団塊の世代に当たる図書館司書のライバル意識は強かったようです。正確にいえば「コンプレックス」
法体系で
憲法教育基本法>社会教育法>図書館法
という位置づけがなされ、社教主事が司書より上位概念というヒエラルキーがあったことも事実。
後に“収縮的解消”されますが、新館建設における国庫補助が図書館よりも公民館の方が手厚かったこともあり、そして、そのために
「公民館整備が優先され、図書館の整備は後手にまわった」
という声も側聞しました。

「図書館が公民館に負けてどうするか!」

公民館に対する図書館員の過剰なまでの対抗意識は、必ずしも一介の現場・お花畑だけのハナシではありませんでした。
幹部や学識経験者とされる方にも、同じような認識をお持ちの方は多かったと思います。
10年近く前、インターネットが普及しつつあった頃の話ですが、あえて実名は出しませんが、図書館関係の職能団体の図書館の「図書館学教育部会」なる部会長であり、K大学の教授でもあったI教授の講義を受けたことがあります。
席上、I先生は、当時普及が進みつつあったインターネットに絡む情報活用能力向上の市民向け講座。これらの多くが公民館で開催されていることを指摘(糾弾)し、
「図書館は情報の集積であり、司書は“情報のプロフェッショナル”であらねばならない!
図書館が公民館に負けてどうする?!」

と、絶叫に近い口調で発言しておられたことを思い出します。
もちろん、司書の情報活用能力の取得・活用について“強調>アジテーション”であることはわかってましたが、その一方で
“勝ち負けの問題なのか”
という疑問は残りました。
私自身の感想(意見)としては、
図書館法第三条第一項第9号
「学校、博物館、公民館、研究所等と緊密に連絡し、協力すること。」
の規定に基づき、適宜連携して情報リテラシー向上に努めるべきであり、つまらん
“縄張り争い”
を助長するような発言はいかがなものかと思いました。

課題・問題の「勝負」から「共有」MLAK

それでは、I先生のいう、“勝ち負け”の結果といえば、前回のエントリにも書いたとおりです。
まぁ、勝負にこだわるわけではありません。
しかし、少なくとも、社会教育を標榜している以上、ソーシャル(社会)メディアの利活用を実践・活用していく力が公民館職員には欠けております。
別に、「対立」の構図に持ち込むつもりはありませんし、図書館クラスタ全体が活用能力を活用しているワケでもないし、図書館そのものにも“出遅れ感”は存在するわけです。
ただし、これからは、単なる「対立」の構図ではなく「切磋琢磨」。お互い刺激しあって向上を図るという手もあります。

前回も、掲げた「saveMLAK」のロゴ。
私がこのデザインを気に入っているのは、「生き物」みたいだから。
そう、
「MLAKこそが、成長する有機体である」
そうありたい、あってほしい、そう願っています。