観念的社会教育不要論批判

空想から崩壊へ

このタイトルの“観念”とは、もちろん、プラトン、バークリー、カント、ヘーゲルとはまったく関係ない、いわゆる“思いこみ”であることを、あらかじめご承知おきください(それを期待して検索でHITしてこれをお読みの方、ノイズになってしまったことでしょう。遺憾の意をとりあえず表しておきます。)。
さて、以前に

・空想的社会教育主義批判
 http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20110501/1304255957

という、エントリを出してます。ご賢明なみなさまはお気づきでしょうが、このタイトル、オーエン・サン=シモン・フーリエらの“社会主義”を、のちのエンゲルスが“空想的”と決め付けたことのパクリというかパロディーです。
周知のとおり、エンゲルスは「空想から科学へ」の中で“歴史法則の科学的把握が足りず、その実現の方法を欠いた”としました。その後の流れといえば、空想からレーニンによる権力の集中>スターリンによる独裁・粛清>フルシチョフ批判>ゴルバチョフペレストロイカ、という流れを経て最終的には崩壊=メルトダウンします。ここまでが「科学」といえば実験ずみだから「科学」ともいえます。ついでにいえば、悪名高い戦前の特高警察。その「反共弾圧」も、このことあるを予期していたのならば恐るべき千里眼的予想と申せましょう(ウソ)。

社会教育ブツ議

話を21世紀の現在に戻して、最近の社会教育関係者の自嘲・落胆ぶりは
可笑しくって涙が出そう*1
京浜急行快速特急京急新子安あたりを通過するくらいの速度*2で通り過ぎ、
お菓子食ってゲップが出たのちメタボ くらいの感じでしょうか。
いわゆる、

  • 自粛ムード

に加えて、実務面では

  • 予算削減

とか、

等々…
これらをまとめて
「社会教育は“不要不急”だから…」
と、言い出す始末。敗北主義というか、負け犬オーラ全開です。自虐ネタは勝手ですが、
「おまえたちは“負け”を決め込んで、それはそれでいいかもしれないが、“社会”がそれでいいのか」
考える必要があるワケでして。

社会教育オウエン団

まずは、

  • こんなご時勢に…
  • この不況の時代に…

という視点で考えて見ましょう。
かのエンゲルスが「空想的社会主義者」と決め付けたオウエンですが、この方の略歴をみれば、彼はあらゆる実験を試み、いくつかの成功を収めています。そして、“ニューハーモニー村”で失敗してしまいました。
が、オウエンはあらゆる試みを行っただけに「空想的」というのはずいぶんバカにした言い方です。「科学的」ではないにしろ「実践的」という称号が与えられてしかるべきです。
まぁ、エンゲルスが彼を評価しない最大の理由は、彼が「資本家」だったからだと、私は決め付けさせていただくとして、“ニューハーモニー村の失敗”は痛手ですが、彼は幼稚園教育をはじめ、今日でいう「社会教育」に相当する取り組みを行い、「経営者」として成功を収めました。彼の活動を見れば、
「社会教育は労働生産・効率向上に寄与する」
ことがわかります。
これで、

  • こんなご時勢に…
  • この不況の時代に…

は、根拠のないデッチ上げにすぎないことがわかります。
むしろ、
「不景気だからこそ社会教育」
と声を大にして“オウエン”したいところです。

ライフラインとしてのつながり

今回の大震災。液状化で損害を被ったとある市町村では、ライフラインの回復が優先課題となり、多くの社会教育従事者もまた復興のため、作業に従事した(ている)そうです。
さて、この“ライフライン”という言葉ですが、電気・ガス・水道などの生活に欠くことのできないインフラ・補給線として理解されています。
ところが、英和辞典を引けば“命綱”“救命胴衣”“救命浮き輪”などの記述が出てきます。今日日流通している“ライフライン”とは“和製英語”ならぬ“和製和訳”のような“決め付け”“思い込み”を感じます。
さて、先に参加した「社会教育熟議in横浜」で、同席された方が、
「社会教育とはセーフティネットである」
と発言されてました。
たしかにそのとおりです。日本国憲法第25条は
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
とありますが、この「文化的な最低限度」を保証するのが社会教育です。
ここで話題を“ライフライン”に戻しますが、この“セーフティネット”を構成するものは何か考えると、真の意味での“ライフライン=命綱”ではないかと思います。
先の震災で、被災者の方々、苦境の中で相互扶助の精神を忘れず、どんなときでも礼儀正しく、秩序ある行動をとられました。このような姿が世界中から感嘆の声が上がっています。これは間違いなく
“わが国の育んできた社会教育の賜物”
だと思います。
これからも、孤独死・独居老人・引きこもり・ニートなど、セーフティネットはより重要になりますが、そのネットを紡ぐのも“ライフラインとしての社会教育”ですし、またセーフティネットそのものが社会教育であると思います。
まぁ、程度の差こそあれ、社会教育に従事している方々はうすうす気が付いているのでしょうが、往々にして社会にネットをつくる以前に当のご本人様のアタマの中がクモの巣(ネット)だらけ、ともお見受けいたします。

公民館・社会教育が「首長部局」でどこが悪いか

最近、公民館関係者のあいだで話題なのは、

ということです。当事者にとってはまことに移管、じゃない、“遺憾”に存じていらっしゃることでしょう。
たしかに、
憲法教育基本法>社会教育法
という法体系で考えれば教育委員会が担当することが妥当です。ただし、現実の教育委員会制度が学校教育、わけても義務教育に偏重している現状を考えれば、仕方もないことなのでしょう。
教育委員会といえば、義務教育の指導主事とか管理主事とかいう職名の先生方が多数派を占めます。これらの方々が「学習指導要領」というシバリ…じゃなくワク組みの中で“要領よくする”ために心を砕いているのはいいですが、結果として社会教育がおろそかになりがちです。予算の獲得一つとっても、学校教育に重点をおいてきます。
ならば、“片手間仕事”の扱いからこの際離れてしまい、文化振興・まちづくり・地域活性化を打ち出して、「長部局」に引っ越ししてしまうのも緊急的に計画避難をするのも、悪い選択とはいえません。

いい国つくろう、キャバクラ幕府

そもそも社会教育とは、社会教育法で次のように規定しています。*3
「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む)」
近年、類語としてより広い「生涯学習」という言葉が流通します。これには「学校教育」も含まれますので、混乱しますが、臨教審では
学歴社会の弊害を是正するとともに、学校中心の考え方を改め
ということですから、取り込んだハズの学校教育にケンカを売るようなもの。内戦勃発です。
実際、学校教育については“取りこぼし(登校拒否児も含め)”が多いと思います。
たとえば、歴史です。歴史を学ぶことの功徳は、先人の経験や事物に学び、歴史観を養うことにありますが、学校教育は

といったことをひたする暗記する、退屈な学問にしてしまいます。
鎌倉幕府には「武家が政権を開く」という意義づけがされますが、これも怪しいものです。
「武の功」をもったものが、その力にモノをいわせて政権をとったというなら、「平清盛」は、その前から牛耳っています。
また、「武家」が政権をとったといっても、畠山重忠梶原景時和田義盛といった「武の功」を誇った者は次々と北条氏により排斥されていきます。江戸幕府では、福島正則本多正純が「改易」されました。
つまり、「武家政権」とはいえ、政治力や権謀力なくしては政権の中枢には残れないし、武士の「官僚化」も進んだ、こういう「歴史観」を養うことが学校教育には徹底的に不足してます。
ともあれ、

ことを記憶させることもいいですが、このようなクズ肉ハンバーグを食べさせる教育が「社会」にとって「有用」か、社会教育の立場から議論すると面白いと思います。
ちなみに、私はそんなものを暗記させるだけなら
キャバクラ市で安心して入れる鎌倉を探す
もとい!
鎌倉市で安心して入れるキャバクラを探す
能力を伸ばしたほうが、経済的にも、日常の危機管理にも、審美眼を養うにも有用だと思いますね。
ゆとり世代は、空気が読めない」
とボヤいている中間管理職の方にもOKでしょうし

それではまた

*1:元ネタはキャンデーズの「微笑がえし

*2:たしか最高で120Km/hだが、乗ってみるとそれ以上のスピード感

*3:「社会教育概論」などの講義を受けに行くと、この定義だけでほとんどの時間を割いてしまいます。これは「ムダである」と、意見しておきます