『市民の図書館』は、“図書館(設置)運動”の牽引車であったか?

8/7ブクマコメントに基づき、修正しました。サンフランシスコ講和条約を「ロサンゼルス」という基本的なミス。ご教示いただいた、GCW先生に感謝し、お詫びして訂正します。

図書館史とは…

私が受講した「図書館司書講習」の「図書及び図書館史*1」は、“戦後図書館史”といってもいい内容でした。田中稲城とか今沢慈海などの名前も出なければ、日比谷図書館についても触れられていない。というより、

  • 戦前=暗黒

という実にありふれた図式。戦前日本社会の総否定路線でありました。
闇に光を当てるのがGHQ&CIEになるわけです。
たしかにロサンゼルスサンフランシスコ条約までの、いわゆる占領下において、GHQが“戦前教育=教育勅語”のやり直しという意図から“社会教育”を重視します。ただし、敗戦直後ということで経済の不足、日本独自の公民館重視ということで「実を捨てて花をとった」といわれる図書館法が成立します。
本格的な図書館設置が進むのは、1970年代以降のことです。
「個人・個別」としての学習施設である図書館よりも「集団学習」としての公民館が優先されたのですが、「市民グループ」を形成するような方々は「公民館」のような“集いの場”はニーズにあっていたでしょうし、反対に図書館を欲するような「個人」がグループ化し、運動を形成するにはやや荷が重いとも思われます。
また、1970年代といえば、革新政党が前進し、60年安保から70年安保闘争へと進展した時代です。これらの時期「市民グループ」は革新政党よりであったり、親ソ反米の色濃いものでした。その時世にあって“GHQ=アメリカ譲り”の図書館振興策が入り込む余地があったか、怪しいところです。
面白いのは、現在なおそうですが、図書館司書には「革新系」のシンパともいうべき方やグループが今もってなお存在していることです。
これらの方々は、同時に盲目的といっていいほど『市民の図書館』信奉者ですけど、ややもすると、

「革新自治体」のもとで市民の要求と『市民の図書館』とが結びついて図書館運動が大躍進した

と考える向きも多いようです。
しかし、革新自治体の全盛期は1970年代いっぱいまでであり、図書館振興の80年代とは少し時系列がズレているように思います。
いま、読み返すと、“図書館を設置しよう”という事態にあって図書館員はいかように図書館づくりをすべきか、という問題解決のためのHow toものであったかと思えて仕方ないのです。もちろん、“図書館づくり”の施工段階で有益な助言・戦術の紹介を行い、結果として「図書館づくり」に貢献したといえるし、その「効果」が図書館未設置他市町村へ波及した、ということで間接的に効果はあったのでしょうが…

隣の似た者図書館

私が、いつも気にかかっていることがありました。
本当に、図書館は「運動」によってできたのかということです。
1970年代後半に新築した私の(かつての)勤務館ですが、隣の自治体の図書館がウリふたつ、そっくりなのです。
聴くことによれば、その自治体。首長が完成したばかりの我が館を視察し、すっかり気に入ってしまい、
「同じモノをつくれ!」
と指示したそうで、トップの命令だけに設計事務所も同じ事務所に注文。こうして姉妹といえるような図書館ができあがりです。

図書館もコンクリート

近隣自治体への波及効果とか好影響だとか、ホメるにはたやすいです。図書館が燎原の火のごとく急速に広がりを見せたのは、こうした
「隣のマチにできたから(我がマチも)、図書館つくれ」
という、対抗意識のようなものが多分にあったと思われます。
図書館といえば、文化・教育施設であると同時に、市民の支持(人気)を集めやすい施設でもあります。
大規模建築ですから、それなりに「利権」もからみます。
これをいっちゃえばオシマイですが…
図書館もコンクリートでできている
ということです。奇をてらったり、デザイン重視で、利用者にも職員にも“優しくない”建物は多いですよ*2

*1:この科目名だったかなぁ…

*2:よせばいいのに、エントランスを高くして急な階段を登る図書館は多いでしたね