三多摩の図書館運動は「市民運動」では語れない

(承前)
文科省による「図書館司書講習」もたけなわの季節かと思います。多くの方々が課題なりレポートなり、暑い中一所懸命だと思います。先ほどきまぐれに「図書館設置運動」をgoogleで検索したら、私のエントリが一番最初に列挙されてしまいました。必死で勉強されておられる司書の卵の皆様には、誠に合い済まないことです。が、ノイズを排除したり異聞・異見をも清濁あわせのみ、峻別するトレーニングを今からやっておけ、と助言申し上げます。

識者からのコメント

さて、半ば意図的だったのですが、図書館史上重要なトピックをスルーしておりました。そう、「三多摩」のことです。
そのことを教えてくださった(蒸し返してくださった?)kabe_dtk様からのコメント

革新の美濃部都政の図書館振興プロジェクトの中で多摩地区は『中小レポート』や『市民の図書館』を範として運営された歴史的経緯,それに文庫活動をやっていて「街の図書館」を待ちわびていた市民などの要求(住民運動)が結びついた図書館設置運動は,首長が保守派だったとしても,革新的なイメージに結びついている,と言えなくもないですね。

我がブログにはおおよそ似つかわしくない、素晴らしいコメントです。
おおよそ、あり得ないことですが、もしも私が司書講習の講師であれば、前後がたとえボロクソであっても、この一文だけで少なくとも「60点」を出します。
同様にあり得ないことですが、もしも私が桂歌丸師匠であれば、山田君にザブトン3枚を運ばせます。

都立多摩という裏付け

たしかに、このコメントは鋭いところをついています。美濃部亮吉氏が都知事に在任したのは、1967(昭和42)年〜1979年(昭和54年)でありました。
一方で、都立多摩図書館ですが、

・東京都立図書館の沿革(都立図書館公式HP)
 http://www.library.metro.tokyo.jp/15/15600.html

によれば、1974(昭和49)年に最初の記述

「都立多摩センター図書館(仮称)構想」中間報告(多摩三館連絡会)

が見られます。その後答申や構想を重ね、ついに1987(昭和62)年に都立多摩図書館が開館します(その頃、当の美濃部氏はもはやこの世の人ではありませんでした)。この都立多摩図書館の経緯から、kabe_dtk氏の意見にはそれなりに実証・説得力あるものと考えます。

そういえば、図書館大会は「多摩」だったよね。

ところで、忘れかけていたことですが(実際、もはや私にはどうでもいいことなのですが…)、今年の日本図書館大会は多摩でしたね*1

全国図書館大会(JLA公式)
 http://www.jla.or.jp/rally/tabid/231/Default.aspx

分科会も多数ありますが、「さすが」というべきか、フラッグシップたる第一分科会はズバリ!「市民の図書館」!!

・第1分科会 市民の図書館
 http://www.jla.or.jp/rally/bunkakai/section1/tabid/244/Default.aspx

個人的に面白いのは、この分科会の趣旨説明です。少し長いけど引用してみます。

1970 年に発行された『市民の図書館』は公共図書館の新しいモデルを提示し、多くの図書館の発展の基礎となった。資料提供とレファレンスサービスを基本の仕事と捉え、個人貸出の徹底、児童へのサービス、全域サービスを重点目標とした。40年の間に図書館の数、利用が増え、図書館サービスは拡大、浸透した感があるなか、貸出重視への批判、新たなモデルの必要性が多く語られている。この間、図書館が住民とどのように街づくりに関わり、図書館がある街がどのように変わってきたか。事例を通じ、図書館のこれからを考える場とします。

ううむ。私のような“昔気質の図書館司書”にとっては、
“貸出が基本。レファレンスサービスや読書案内は貸出の基礎のもとに行われる”
と、徹底的に刷り込まれてきました。かつては下位概念であったレファレンスサービスが、上記の説明では「貸出」と同等に取り扱われていることに“違和感”を覚えます。
加えるに
貸出重視への批判、新たなモデルの必要性が多く語られている。
という文言もあり。もしかして、当日は
フルシチョフによるスターリン批判
のようなものが飛び出すかもしれません。

なぜ三多摩なのか?

さて、内ゲバ(あるいは出来レース)としての図書館大会はさておき…
なぜ、図書館設置運動(史)になると、引き合いに出されるのが「三多摩」なのか、以前から不思議でたまりませんでした。
久米川の電車図書館、日野の「ひまわり号」など三多摩の図書館の光彩は色褪せないものがあります。
しかし、三多摩のほか、横浜の港北ニュータウンくらいしか可視化されていない(公式に記録されていない)一方で、図書館はいまや日本全国に「普及」しつつあります。にもかかわらず、なぜ“三多摩だけ”なのか。
実は私自身、1980年代の学生生活をかの地で過ごしています。
当時、広義の「市民運動」は下火になりましたが、その残光なり残滓なりはいまだ残っており、また私自身もそのうちのいくばくかに参画したこともあります。
私の経験では、単に「市民運動」というよりも、「生活協同組合」や、共産党系の市民団体「新日本婦人の会」などが強く、

などが盛んであったように思えました。

わけても、盛んだったのは「住民運動」であったと思います。ニュータウンの造成・ベッドタウン化で人口が爆発的に増加した三多摩では、社会資本などが人口増加についていけず、結果として住民には不便・不満を与えることになります。このような中で共通した悩み・問題に“ともに立ちあがろう”という機運が生じるのは当然のなりゆきでした。加えて、先述の「生活協同組合」や「新日本婦人の会」のような受け皿もありましたし、半面これらの団体では“共通の願い”ということで自分たちの陣営を強化し、組織の拡大にもつながるというメリットもあったわけです。
こうして、既存団体と新住民の利害が一致し、「私たちの要求」というかたちでまとめられていきます。たとえば、交通問題についていえば、鉄道の新設*2という大胆なものから、バス停の設置や、あるいは“どこそこの交差点は「歩行者用横断信号」が短すぎて、子ども老人では渡れないから、10秒増やせ”といった微に入り細に入りまで、数多くの「要求」が積み上げられていき、当局に改善を求める行動(陳情とかデモとか署名とか…)がとられていきました。

残酷な司書のテーゼ

「市民の図書館」信奉者、あるいは“政治司書(ソ連赤軍の「政治将校」のようなものとお考えください)は、「市民の図書館」である以上、
「図書館は市民がつくった」
と、主張します。これは、彼らの理解(市民の税金によって賄われている、という基礎的理解)の外ではたしかに「当たり」です。ただし、インセンティブとしての「図書館(設置)運動」は「(純粋な)市民運動」であったかといえば、かなり怪しいところです。
一つには、「市民運動」そのものが、辞書的な意味での市民運動〜特定の政党の影響を受けない〜からは外れていること。
二点目は、労働運動・社会運動・平和運動などが混然となり、図書館運動の入り込む余地は少なかったことです。この点は実に重要です。昔の文書を見ると、たしかに「図書館の設置」とか「図書館の充実」などの文言はみとれますが、数多の「要求」のうちの数行に記述されるにとどまっているのが現実でした。ついでにいえば、その種運動に熱心な活動家は恐ろしく多忙であり、公共図書館を利用しようという意識も「要求」も入る余地がなかったと…。とにかく「図書館運動」は「市民運動」の中にあっても“ワンオブゼム”存在感は希薄だったと思います。

まぁ、所詮「図書館運動」といふものは…

イロイロ書きましたが、かの名著

図書館運動は何を残したか―図書館員の専門性

図書館運動は何を残したか―図書館員の専門性

を読む限り、図書館運動といふものは、
図書館員の、
図書館員による、
図書館員のための

運動だったのかと思います。
それを「市民運動」の賜物と勝手に自分たちの都合のいいように解釈している人がいる。
ただ、それだけのようです。

*1:実際の会場は「調布市」なのであるが、「多摩」と表記すれば、パルテノン多摩で有名(?)な「多摩市」が主会場かのような印象・誤解を与えるので「三多摩大会と称したほうがいいと思うのは私だけでしょうか?

*2:現在の多摩都市モノレールは、この流れを汲んだ、と思われる