「大輪一輪」から「百花繚乱」へ、明日は図問研大会

本題に入る前に…
前回エントリ「6月27日の二つの集い(ALISと図問研)の顛末と、一つの試みへの期待」では、当日参加(ALISは「擬似参加」)した二つの集いについて感想を書きました。たまたま同日開催のものをひとまとめに書いただけですが、あとで読み返すと“対立の構図”、として“新VS旧”、“新興VS伝統”を対比したような印象を与えてしまったかと思います。私にとっては、両方とも素晴らしい催しであり、比較対象・対立なぞかんがえてもみませんでした。が、やはり当方の記述力のなさのためか、そのような誤解を与えるような内容であったことを認めますし、両者の主催者・参加者・関係者・読者のみなさまにお詫び申し上げます。

さて、本題ですが一応図問研の会員であった私、事務局か何かのミスで支部とは入会依頼シカトされ、じゃなかった音信不通の状態にあり、ほとんどの方々とは面識ゼロ。そんな中、敵中(!)深く潜入する百式司令部偵察機の乗員のような気持ちで参加したワケです。

ところがうれしい誤算だったのは、暖かく迎えられ、また音信不通について深謝を繰り返す人もいて、たちまち友好的な雰囲気。みなさん、私がこのブログ主宰者であることを知ってか知らずか*1二次会にも同席、楽しいひとときを過させていただきました。

自分も人見知りする方ですし、あそこまでフレンドリーになれたのはなぜか? 帰り道、イロイロ考えたてみましたが、思い当たる答えは一つだけでした。
“誰もが図書館を愛していた”
ことです。お互い持論や立場が異なっていても、この一致をみるかぎり、「対立の構図」というものがいかに愚かなことかを知るワケです((もっとも戦争ゴッコ大好き人間としては「対立」はやはりオモシロイ構図なんですケド)

で、さて当日講師の岡本真氏は、図問研の課題について
「予定調和の世界を超えた多事争論を」
http://www.slideshare.net/arg_editor/tomonken-gunma20100626
とお話しいただきました。

私が図問研に強く感じるのは、なんでもかんでもを無理矢理、“まとめ”よう、“集約”しようとしたがることです。
皆から意見を出し合い、その中でよいものだけをaufhebenしていき、「図問研」組織一体としての運動方針・行動原理を出す、という流れへのこだわり(愛着)を感じます。
実は戦後、市民運動草の根運動ともに、この手法でした。
すなわち、みなの心(意見)を一つに(意思統一)して、スクラム組んで“団結がんばろう”の時代。
昔はそうでもしなければ強大な相手(国家権力や独占資本など)に対して「力」となりえないかったからです。

そして、市民の思考・立場・価値観が多様化している今日、こうした運動は下落傾向にはあります。そして図問研運動もおそらくその一つなのかもしれません


なんでも「まとめ」「集約」することにこだわること、そして無理が生じていることは、機関誌『みんなの図書館』に顕著に表れているようです。
この機関誌、“特集”としてまとめることにこだわり、提供する情報の狭まり・バラエティーの欠如(最近の『み』は、委託・指定管理者特集ばかりですからね)が見られます。
結果最近では同じような人間が同じようにモノを書いているようなことが頻繁におこります。(ちなみに先日部屋を整理して、埋もれていた『み』をよんでいたのですが、2年前のものでしたが、現在でも通用する内容でした。内容が優れたからではなく、これまた「金太郎飴のなせるワザ」と思います)最近では質まで落ちているようで、たとえば以前エントリ

・【ステタ市は】図問研イマドキ情報【ステちゃえば】
 http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20100225

はヒドかったと思います。
この号

・みんなの図書館2010年3月号が出ました
 http://tomonken-weekly.seesaa.net/article/140736957.html

この号には、京大ユニオンエクスタシーの良記事があり、久々のヒットがあっても例の失礼千万な“寸劇”で6−4−3のダブルプレーにおわります。
さらに野球にたとえれば、監督(編集長)は、評判芳しくないことを知り
「さきほどの打球はフィクションでした」
と、(打撃)そのものがなかったと、プレー続行を宣言。これでブーイングが減ると思っているのでしょうか?

このエントリ見た、良識ある図問研のみなさんの中には
「だったら、オマエも見てばかりいないで打席に入れよ。そうすればプレーする人の気持ちもわかるよ。」
お誘いありがとうございます。しかし、残念なことに『みんなの図書館』には投稿の案内・投稿規定も載せておりません。どうせ私のような異端者の雑草のような投稿お断りなのでしょうか。『みんなの図書館』は図問研の中でも編集部のお眼鏡にかなったごく一部の烏合の衆、失礼、特権階級(ノーメンクラーツラ)にのみ許されているのです。『ともんけんウイークリー』にしても同様。ほんの一握りの方だけがあれを書いているんですな。個人的には「毛玉」より差別的記述を書く幹部を「吐き出して」ほしいと思います。

でも、あ、私編集長(関東)を知っています。研修仲間でしたから。彼は優秀なだけでなく、思いやりや優しさに満ちた、人間としてもライブラリアンにしても、素晴らしい人でした。
もっとも、彼にかぎらず、私の出会った図問研会員は、みな立派な紳士淑女が多かったように思います。特に図書館への愛着・情熱は素晴らしいものがありました。
が、反面過剰なまでの図書館への愛情ぶりには、「溺愛」ということばを想起するような辟易とした気分にもなりましたし、それらが周囲の(図書館人以外の)人からは「プライドの高さ」「独善的「自信過剰」といったネガなイメージで伝わらないか、(余計とは思いますが)気になる場面もあったこともあります。


一人の人間(図書館員・図問研会員)をイメージしてみました。
年齢は40〜50。落ち着いた品格の持ち主で、趣味は園芸です。
彼は庭の草花を我が息子娘のように可愛がり、生きとし生ける者すべてに慈しみと畏敬の念を持っています。
ところが、ハサミをとるややがては各々花を咲かせたであろう、蕾や枝を、自分の好きなように選定剪定していきます。すべては
「大輪の花を咲かせるために」
この大義名分の前に、他の蕾は眼中にない、というよりも排除しなくてはならない存在なのです。
ちなみに、このような方こそが、カラオケに行けば案外「世界で一つだけの花」を熱唱します。

無駄話ばかりしてしまいましたが、図問研としては「大輪の花一輪」にこだわりがあるようです。すなわち
“一人に一人それぞれの花”
ではなく
“みんなで一つの大きな立派な花”
がメンタリティ。
今のところ、“花”は前川恒夫路線の継承でしょうか
雑草(指定管理者・委託)などが寄り付かぬよう、立派な“鉢(直営職場の会員)”
にいれておくのですが。

みなさん、ご存じのとおり鉢となる直営その場が小さくなれば、どうなるのでしょうか?

“まとめ”“集約”からはじまって鉢植えに例えるとは、つまらぬ結果でしたが、今になってようやくよい言葉を思い出しました。

ソーカツ(総括)!!

約40年前、あの連合赤軍あさま山荘事件の前、群馬では各所で「総括」という名目で粛清=虐殺が行われた場所でもあります。
今年、その群馬で開かれる図問研全国大会。自分も1日だけですが参加することにしました。

それでは、大会に行ってきます。
図書館職員ではなくなった自分と
存在があやしくなる図問研
野辺の送りに…
野辺の送りには大輪の菊一輪より野菊の束こそお似合いです

*1:もちろん、知らないに決まっている。これまでのエントリ読んでいたらフルボッコは必定