“公共サービス”を忘れた“公共施設”という“違和感”
耐えがたきを耐えられず
以前にも書きましたが、手っ取り早くこのブログを店じまいしなくてはならないと感じています。
地デジ閉鎖とともに、このブログを止めるという目標はおろか、今度は「終戦記念日」にシンクロしようとする目論みもまた“耐えがたきを耐えられず、忍びがたきを忍ばず”に、潰えました。
ブログをやめるということは、自分として「司書」という要素が消える、おだやかでないことを言えば「司書としての自分を殺す」ということです。“殺す”という言いまわしには、自分でもおだやかでないものを感じています。十数年にわたる司書稼業から脱却し、単なる「公僕」に成り下がる(いや「止揚」か?)ためには、司書たる自分を抹殺せねばならない、そう実感しています。
ところが、皮肉というか「公僕」とか、当面の職場としての「社会教育」に目を向けてくると、なかなか面白い図書館像が見えてきたわけですし、これまたよせばいいのに「図書館史」なぞに言及するのもこれが所以。
個人主義と図書館
まぁ、そんなワケで我流「図書館回想録」と同時に、「公僕」たる自らの資質の向上を同時進行的にやっているのですが、最近は
- 作者: DE・アレクシス・トクヴィル,井伊玄太郎
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トクヴィル流の、“個々人の進歩と向上により社会全体の向上が達成される”という考えには「公僕」として学ぶべきことは多いですね。図書館人が愛する
「真理が我らが自由にする」
というのは、まさにGHQ>CIEが日本人に望んだことでもあったわけです。
その結果かどうかはわからりませんが、個々人の努力を惜しまない、たとえば節電などにみられるように“柔らかな個人主義”は、今回の震災でも健在でありましたなぁ。
健康・医療情報サービスを「公共サービス」
さて、またしても『みんなの図書館』ですが…
・みんなの図書館2011年9月号が出ました
http://tomonken-weekly.seesaa.net/article/221023733.html
にある
健康・医療情報サービスを課題解決型サービスと位置づけることへの違和感 石井保志
タイトルに大いに期待をもって読みました。
しかし、実際に読んでみると、私が期待したのとは正反対の方向。
石井氏の意見
慢性疾患の増加>“病気は治すもの”という概念だけではダメ>後遺症や副作用は“解決”できるようなものではない
という主張には、説得力もあるし、うなづける部分は多いのですが、私としては過去のエントリ
・「直営維持」を図りたい公務員司書はもてる人脈を活かせ〜最近の「健康情報サービス」ブームから
http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20100617/1276784415
とかでも書きましたが、糖尿病などの生活習慣病は本人の心がけや実践で防げることが多いのです。そのインセンティブとなるのは心身ともに健康であることへの啓蒙・啓発であり、それによって「医療費削減」という国民的課題にも貢献します。
ここまで、書いて思うのは、図書館の「課題支援サービス」は“個々人のもつ課題”をメインにしていることです。少なくとも生活習慣病や予防医学の普及など、健康づくりを通じて「医療費抑制」という思想は、たいていの図書館で皆無のように思えました。
図書館は“公共の福祉”に資することを目的とした“公の施設”として位置付けられております。ただし、その中の人(=司書)にとって、個人向けサービスには向き合っても、その最終目的たる“公共の福祉”への“公共サービス”はあるのか、私は実に疑わしいと思いますし、そのような視座抜きには「税金を投じる施設」たる資格はないとまで申しましょう。
え、なに?
「心療内科に通ったオマエが言うな!」
ですと!
そうでしたね、ハイハイ…