「試験監督」から「試験アテンダント」へ。なら「監督」できなくても文句はいえないね>京大

己の大学入試になぜ警察が必要なのか?

京都大学カンニング問題が巷では話題ですね。
自分の感想を率直に述べれば、
「自分の大学のオーデションくらいきちんとやらんかい! 警察だのみにするんじゃねぇよ!」
というのが、正直な感想です。
自己の大学において、入学を許可すべき生徒を選出する(いわゆる入試ね)という行為は、その大学の責任においておこなうべきことです。
Yahoo知恵袋を“活用”した不心得者を出したことも、それを見抜けなかったことも大学の責任。それに警察という公権力を投入するのは税金のムダ使いといえますし、受験者の逮捕が大々的に報じられることに「見せしめ」のような意図を感じました。

試験アテンダント

私も20年くらい前、入試を“受ける”側として、数次にわたり入試を経験しました。いわゆる共通一次世代です。その頃は「受験戦争」と呼ばれたとおり、熾烈な競争であったように思えます。
それから、しばらくの時を経て、「学校司書」として高等学校に赴任したのですが、お受験事情もずいぶん変わっていました。
大学の増加と少子化により、選り好みさえしなければ誰でも大学に入るという「全入時代」。
“学生がしのぎを削って試験を受ける”ことよりも、“各大学が何としても高校生のウケを狙う”ことへの変化。
同時に、私もまた一職員として「試験従事者」の片隅に身を置いたのですが、学校側の気の遣いようといったらハンパじゃないものを感じましたね。駐車場整理(降雪時には雪かきも)にはじまって、体調不良者への扱い、会場内の秩序等、受験者の処遇については、「試験監督」といえばいかめしいですが、この際「試験アテンダント」と言った方がピンと来る内容です。その中では、生徒を選抜する手段としての「入試」そのものが、目的化されてしまったような感覚にとらわれました。試験開始のチャイムが鳴り、受験者がいっせいにペンをとり、エンピツの音がこだまし始めると、現実の入試は、ちょうどいま始まったばかりというのに監督する側には、一つの責任をなし終えたような安心感が漂った感じです。

もはや「監督」とはよべない

今回の事件で、試験監督の不手際・不十分を指摘する声もかなりあるようです。もっともな話だと思いますが、前述のような「試験アテンダント化」が、監督不十分を引き起こしているという側面もあるのです。
「試験アテンダント」は、全受験生の“良好な試験環境の提供”に重きをおきます。また、後日、結果発表のあとで不合格になった受験者の親(いわゆる“モンスターなんとか”と呼ばれるような人たち)が
「試験監督が歩き回るので、勉強に集中できなかった」
などと怒鳴りこみにきます。もちろん、理不尽なことは、当人もわかっているようですが、“怒りのやり場に困る”とか“一言言わずにはいられない”というパワーが強いらしく(いわゆる「八つ当たり」でしょうか)、弁舌をふるっていかれます。それでなにも変わるわけがない、一文の得にもならないのですが、「試験アテンダント」を萎縮するには十分であったわけです。

モンスター教育機関

さて、“萎縮”という言葉がでましたが、今回の事件、いわゆる「岡崎事件(librahack事件)」と共通しているのは、公的な教育機関岡崎市立中央図書館と京都大学)が「インターネット犯罪」について「偽計業務妨害罪」として逮捕させることです。
もちろん、岡崎事件の場合、librahack氏本人に犯罪性はまったくない、ということは根本的に違います。
しかし、公的な教育機関が、自分の手に負えないとみるや、なんら躊躇することなく、警察に訴え出るということでは共通しています。
例の岡崎事件

・図書館ホームページ閲覧障害に係る経過等について
 http://www.library.okazaki.aichi.jp/tosho/about/files/20110225.html

では、

当館は、ご本人様に事案発覚当時の状況とあわせて提出した被害届を取り下げないことについて説明いたしました。
ご本人様は、安全で安心な市民生活を実現するため、行政として被害届を提出する必要性があると判断すれば躊躇することがないようにとの思いを込め、当館の判断に理解を示してくださいました。

被害届を取り下げないことについては、警察のメンツへの配慮や、ご本人さまへの物心にわたる「損害賠償」など、「お役所の事情」があるのでしょう。
しかし、公的な教育機関が、ITC関係で当事者能力を越えたとき「躊躇なく」警察に「被害届」を出し、逮捕させる…そんな、公的教育機関のモンスター化のはじまりのように思えてなりません。
くわばら。くわばら。