空想的社会教育主義批判

ML上での個人情報「流用」

実は、現在、Twitterをお休み中です。
そのため、twitterを介して参画していた、マレビトの会(#tralib)、#saveMLAKなども休止状態に追い込まれたからです。
理由は悪意がないとはいえ、とあるML(メーリングリスト)とかの中の人が、私に無断で、私の職場の上層部に電話で“働きかけ”を行ったため、圧力のようなものが働いたからです。
そのご仁からすれば、「善意」での取り計らいだったのでしょうが“小さな親切、大きなナントカ”のご多分にもれず…
そのMLの規約の中に「個人情報保護」についての規定はありませんでしたが、1980年、OECDによる「プライバシー8原則」勧告以降、
「個人の情報は保護されて当たり前」
のように考えてきました。
また、図書館(の自由)や、戸籍法、住民基本台帳法など、市民の個人情報保護に対しては、十分に尊重することを求められる職場に身をおき、働いてきた私ですから、思わず一層のこと、
「なんでやねん!?」
と、思ってしまいます。MLのルールに明文化されていなかったけど、その種の人間が集まるMLでしたので、不条理感・不快感・不信感はどうしても残ってしまいます。

性善説」という名の増長

実は前々回エントリで、私は社会教育に従事する方々を、
私の個人的な感想(偏見)ですが、社教主事の方々は司書に比べて明朗快活な方、フレンドリーな方が多いという好印象
と評しました。ざっくばらんにいえば
「いいひと」
が多いということですが、同時に
「お人よし」
的キャラが多い印象。図書館の自由や戸籍法など個人情報をガチで生きてきた私からすれば、とにかく
「甘い、甘い」
「ユルい、ユルい」
の一言です。
催しを開催すれば、個人名や住所・電話番号まで記した名簿を
「今後みなさまの交流のために」
といって印刷配布するような例も見てきました。
私としては、当然のことながら
「これ(個人情報保護上)、マズくない?」
と、恐る恐るツッコミをしても、“何がおかしいのか?”と云いたそうな表情で、
「参加者はいい人ばかりだから大丈夫だよ」
という一言で終わり。議論にすらなりません。
あえて(よせばいいのに)、個人情報保護条例等で問いただせば、
「今まで、ずっとこのやり方でやってきた。なんの問題もない」
と、胸を張ります。このセリフの後には当然
「だから、これからもこのやり方でやっていく!」
という偉大なる自負と自信、異論をはさまない堂々たる意志、敵(?)ながらお見事というか、あっぱれとしかいいようがありません。
しかし、あまりの過剰な自信、実績への過剰評価ぶりに、安国寺恵瓊ではありませんが、
「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」
されないか、心配になってきます*1

社会教育関係者の自画自賛は通説

社会教育関係者の過剰な自己評価・自画自賛ぶりは普遍の理となっているようです。
かなり前ですが、自分が予算編成にかかる仕事をしていた頃、参考に“ぎょうせい”だか“有斐閣”だか忘れましたが、地方自治体における予算編成の参考書みたいな本があって、その本の“教育費>社会教育費”の項目について、

…このような社会教育施設に携わる職員は、住民から感謝される事業ばかり取組んでいるので、さも自分たちが住民にとってよい事業ばかりを行っているという、自己満足、自己暗示に陥りがちである。そのため、社会教育にかかる予算編成にあたる者は、そのような状況を踏まえたうえで、予算の査定にあたっては、実績根拠を精査したうえで、いっそう厳密に査定に臨まなくてはならない…

このような記述が特に記してあったことは、20年近く経過した今でも覚えています。「特筆」とは、まさにこのことでしょうか?

社会教育従事者と「世の中」の隔たり

このような社会教育従事者の方は、
「ふれあい・草の根・どぶ板、これこそが公民館活動の基本である。」
と誇ります。ただし図書館司書から見ると
「まだまだだなぁ…」
と言いたくなります。
公共図書館は、古くは「移動図書館」とか「家庭文庫」、近年はハンディキャップサービスをはじめとした配本サービス、とにかく「アウトリーチ」に努めてきました。まだまだ不十分なそしりは免れませんが、ITCの利用もWeb−OPACが「当たり前」になっています。
博物館・美術館は、企画展の集客をねらい地元メディアへの情報提供・連携を重ねるとともに、リピーターの強化にいそしんでいるのです。
残念ながら、公民館の中の人の努力はしているでしょうが、率直に言って
「見えにくい」
のが、正直なところ。

性善説」の傲慢

“地域密着・地域への理解”
公民館職員の専門分野であり、得意分野であるはずの活動にも疑問符がつきます。図書館活動における「アウトリーチ」に相当するサービスに無関心だったり、ヘビユーザーへのサービスに“固執(本人たちは、そう思っていないようですが、傍らから見るとそのような印象は否めません)”してきたこと。
近年の痛恨事は「団塊の世代の地域回帰」に失敗したこと。長い観点から見ると、ミッドウェー海戦で空母赤城・加賀・飛竜・蒼竜を一挙に喪失した日本海軍に匹敵する大ダメージでしょう。
ここで、話を冒頭の「性善説」に戻しましょう。
社会教育従事者は
「ウチ(公民館)に来る人はいい人ばかりだからさ…」
と、胸を張る。そこに違和感・増長をいつも感じます。その理由は

  • 公民館に来る人はいい人=公民館に来ない人は“いい人ではない”という差別的見方? というカテゴライズ
  • いい人だけが公民館に来る=得体のしれない者はご遠慮いただきたいのか? という囲い込み

これらカテゴリーや居住年数などの、「見えない壁」というものに阻まれている要素が、新住民や団塊の世代の取り込みを、どれだけ妨げているのでしょう。

「新住民」や「団塊の世代」への理解不足

社会教育従事者にとって酷ですが、彼等は「新住民」や「団塊の世代」への理解が決定的に不足しています。
先ほど、
「ふれあい・草の根・どぶ板、これこそが公民館活動の基本である。」
という地域観・職務上の価値観を紹介しましたが、残念ながら、これらに関する限り、徴税吏や水道の検針員、防火診断で訪ねる消防署員、これらの方々の方がよっぽど地域とその中の人を理解しています。
私も経験しましたが、現在の「60歳以上70歳未満」と「70歳以上」との間には大きな隔たりがあります。
例えば、お宅訪問のこと。
70歳以上のお宅には、呼び鈴すらついてなく、がらがら戸を開けて「いらっしゃるか〜」と声を出すのが基本
U70はTVカメラ付きインターフォンで氏名・出自を名乗り、開けてもらいます。ある程度の富裕層には警備会社のステッカーも貼ってあります。
局地的でさえ、このような隔たりの大きな差。それをひとまとめにして「地域づくり」をやろうとしても、失敗するのは当然のことかもしれません。

空想から…

話が冗長的になりましたが、これからの公民館事業は、
「“いい人”を待っているだけでは始まらない」
ということです。
それでも、
「きちんとした事業をすれば、必ず人はついてきてくれる」
という幻想。
今の公民館・社会教育に求められるのは、従事者の
“空想から理解へ”
の転換でしょう。

*1:心の一割で、「本当に転んでしまえ!」と思っている自分がいる