館(トリデ)の上にわれらの世界を?

私の図書館員集団への違和感

私が、はじめて図書館の世界に足を踏み入れてから20年近くになります。行政職>図書館>行政職という流れの中で、地方公共団体全体からみた公立図書館との違和感・異質感を終始感じ続けていました。
私は当初、この違和感のようなものは自分の館(地方公共団体)だけの問題ではないかと思ってましたが、日本図書館協会などに参画し数多の図書館員に接する中でさらに深まるばかりであったように思えます。
いま、あらためて思い返すと、図書館業務というものが“地方公共団体の一事務”ではなく“図書館運動(の、ようなもの)の具体的方策”として位置づけられたような印象があるのです。
以下、自分の体験をもとに考えてみようと思います。乱文ですが、どうせ誰も読む人はいないでしょうから。

「格子なき図書館」は「人民解放軍」の手で解放されなければならぬ

私は、司書講習の「図書及び図書館史」の科目で『格子なき図書館(Libraries without Bars)』という映画を視聴する機会に恵まれた。GHQ−CIEによるこの映画を見て、ライブラリアンの卵である私は大いに感銘した。借りるまでに大変な手間がかかった蔵書閉架式を「格子」になぞらえ、それに替わって出現した、明るく解放的な図書館像が紹介される。
また、“ハコモノ”意識の強かった図書館を“移動図書館サービス”というアイディアにもおおいに感心した。
もし、図書館員や、図書館の設置を夢見た人たちが、米国の公立図書館の豊かで洗練された施設設備とそれがもたらすサーヴィスを夢見たのであれば、図書館員および図書館をとりまく人々はおのずと親米的になり、日米軍事同盟・安保条約にも肯定的な考えをもつようになったかもしれない。ところが実際には反対の「革新」的な考えをもつ人たちが出てくるのである。この場合、「革新」とはいっても既成の革新政党であって、新左翼でない。
また、公務員は政治的活動はご法度だからあからさまな態度・行動を出すことはなかった*1
ただし、「革新」への流れは、当時の文筆家をはじめとする“進歩的文化人”の影響もあり、図書館員が彼らの著作活動等に影響を受けやすい存在であったことも事実である。
また、六全協から左翼冒険主義・武力革命を排除し平和的革命・ソフト路線へと路線転換した日本共産党への支持が集まっていた時期でもあった。
つまり、「格子なき図書館」という閉鎖・閉架からの“開放=解放”は、あくまで“人民解放軍”によるものでなければならず、“進駐軍(GHQ−CIE)”によるものと“認めたくないものだな”という感情がみてとれる。

図書館法を捨て、中小レポート・市民の図書館へ

図書館法の制定は“曲りなり”にできたものであり、GHQ−CIEからゴリ押しされたという、いびつな感情があったかもしれない。
現在なお、図書館員が教育基本法>社会教育法>図書館法などの法体系について悲しいくらいに無関心さは、このあたりが出発点なのだろう。

すべての権力をソビエトに! で、すべての図書館運営は?

図書館法に重きをおかない知識人的図書館員は、図書館法としての重みのなさ、特に国家の補助政策・地方自治体への必置規制がないからザル法だという。この批判はまったく的を得ていない。
当時は、日本国憲法でうたう「地方自治の本旨」があり、今でいう地方分権が予定されていた。薩長政府以来の「中央集権」が「軍閥政治」へと変質し、結果的に破滅的な戦争へと進んだ反省から「地方自治」「社会教育」の充実が必要とされたのである。このような図書館法制定の背景を顧みずに批判を行なうのでは、「木を見て森を見ず」の愚に陥っても仕方のないところであった。
同時に、公立図書館が“地方自治の本旨”に依拠し、その健全な発展に資するべき存在であると同時に“地方自治の本旨”に基づいて運営されることを定めた「図書館法」は相容れない存在であったかもしれない。当時の図書館員がシンパシーを感じた「共産主義」は、バリバリの「中央集権」であった。“ユナイテッド・ステーツ”とは対極といってもいい。ま、当時の図書館員には「地方分権」「地方自治」そのものへの理解を期待するほうがまちがっているかもしれない。

中央人民政府にいちばん近い都市

「法」を軽んじたとはいえ、「法」にかわる“よりどころ”として“綱領”のようなものが必要だ。そこで現れるのは『中小レポート』であり『市民の図書館』であった。
実際、『中小レポート』から『市民の図書館』により確立された“貸出し中心路線”というのは、図書館活動を総花的・例示的に列挙した図書館「法」へのアンチテーゼともいえる。
ここで、『中小レポート』を実践し『市民の図書館』を確立した日野市に目を転じてみよう。

  • 資本主義から共産主義への移行は“高度に資本主義が発達した国家=近代的・工業国家”が予定されていた。日野市には、バス・トラックで有名な日野自動車をはじめ、オリエント時計など、精密工業の盛んな土地であった。
  • 数を減らした「革新自治体」に森田市長が最後まで踏みとどまった

加えて、三多摩ぜんたいに視野を広げれば、

これらを加味すると、1950〜1970年代の日野市は「中央人民政府」に日本でいちばん近い時代・都市といえるのである。

改めて、市民活動と図書館員

市民活動とは、市民が自らの価値観、信念、関心に基づき、自分たちの生活とコミュニティの貢献を目的に、自発的に行う活動と解される。
図書館づくり(市民)活動に図書館司書が参画し、プロとしての知見を活かして貢献したことは評価すべきことである。今日いうところの“コラボ”“協働”のはしりであるともいえる。
市民運動とは、市民が自らの価値観、信念、関心に基づき、自分たちの生活とコミュニティの貢献を目的に、自発的に行う活動と解される。その活動からみれば、自分たちの主張とか要求を集約し、関係機関なりに要請・主張・批判することが目的といってもいい。悪い言葉でいえば、“主張するだけの存在”であって、責任はない。
地方公共団体職員(行政職)のスタンスは、これとは大幅に異なる。行政では、多種多様の要望・ニーズを、法令や行政の公平性、財政面や地域の事情など複雑かつ多種多様な要素を考慮し、また上級官庁の指示・指導等にも配慮しつつ選択していかなければならない(ま、要約すれば行政職に必要なのはバランス感覚である)。また、市民団体の構成員と最終的な差は“継続と責任”である。
その過程で市民運動家より提示された要求・要請の全部ないし一部を受容れがたい場合もある、というより多くのケースがそれに該当するから、市民運動は継続して要求活動を行い、行政とは敵対関係とまではいかなくても緊張関係にある場合が多いし、市民運動の提言や監視・チェックが行政に対し結果的によい結果をもたらすこともある。
図書館職員がプライベートな立場で、市民運動に携わるのは結構である。ただし、公務としての図書館員と、私人としての市民活動とは、一定の分別が必要である。
このあたりの「分別」をつけることなく、行政の中にあって“要求・主張・批判的立場をとる市民活動”的な図書館員が多かった。そして職能団体とか問題研究会の存在がそれを助長したともいえる。
図書館員は“館(トリデ)の上”に“我らの世界”をつくったのかもしれない。ただし、その“館(トリデ)”が、地方公共団体の上にある、とまで認識している図書館員はどれだけいますかね…

*1:のちに「プロ市民」「隠れ左翼」と呼ばれるようなライブラリアンが存在し、独善的な行動をとったことが顕在化した例として「船橋蔵書事件」がある